HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

座禅もどき(Somone)

朝起きても疲れは抜けきらず、メトル・ジョンさんは連泊ウェルカムの雰囲気だったので甘えさせていただいた。3食用意していただいたけど、彼の足取りはゆっくり、食べ物を入れた器を運ぶ手は震えていて、心配になるのだけど、曇りない笑顔を向けて「自分の家だと思って寛いで」と言ってくれた。ちなみにここには家政婦さんが出入りして掃除は彼女が行っているようである。

壁を向いて結跏趺坐(片足しかできない)で目を開けたまま座る座禅的なことをしていた。これは自分のペースに戻る活動の一環。

旅費、ビザ、報告、それに昨日感じた体力や気候の厳しさ問題。なんとかしたい事は山程あってまたどうしようもなくきゅーっと縮こまる。これは自分のテンションが落ちていて問題を心配事として受け取るモードになっているからというのが現在の私見です。気持ちが落ちてようがなんだろうがそのまま手を動かしているうちにテンションが上がってきたり、別にテンションなんざかんけーねーよやるべきことがそこにあるならやるんだよと漢スタイルを取るのはカッコいいし基本的に有効なのだろうと思う。が、怠け者の自分にも何気にこういう心配テンションのまま頑張って切り抜けた経験というものはあつて、それは自分を強くしているかもしれないが、モノクログレーがかっていて重く暗くしている。モノクログレーで重く暗いというのは自分のテンションでありそのまま人生の捉え方であり生き心地に繋がっている。

生きてるうちに何を為すか、何を後世に残すか、という他者や社会から認識していただける類のことは本質的に自分が描き出した像、つまりは幻でしかなく、ならば、その描き出し手である自分の心の習慣こそが注目ポイントであり、それこそが生死問わずずっと続いていく、という気がする今の自分が重要視しているのは手足を動かすことよりも気分やテンションをどうやって高めに保つかです。仮に結果的に手足を動かす行動をとるにしても、それは気分やテンションを高めに保つための手段として行うもの。

で、自分が行うこの座禅もどきは基本的に実物や行動のみが尺度であり、気分やテンションなど二の次である世界観から離脱し「ただ在るだけで大丈夫」感を確認するのに役に立っています。何を行うもそれは本質的にその人の趣味とか楽しみでしかない。一般的に仕事とか義務とか責任が伴う重要な行動もこの視点に立てばその範囲。

汗水垂らして頑張っていると社会のルール視点をもってして自分に自信を持ったり肯定したりすることができるけれど、それは出来る時と出来ない時があり、それによって気分が上がり下がりし、それに対処するためにいろいろな技術を要するのですごく忙しい。それが楽しめるならいいけれど自分はどんどん疲れてすぐ嫌になってテンションが落ちます。

頭のキャパシティが小さく、めんどくさがりな自分としては操作するものなど少ないほど良い。座禅もどきで「ただ在る」という操作のない状態を感じ、その上でやりたくてやることを選んでいく習慣をつけていきます。

で、昨日浮かんできた「スケールを大きく」という一言は最初、どこにでも行って誰とでも仲良くなってやりたいことは全部実現して、的な超ダイナミックなものの気がしたのですがこの座禅もどきで「どこかへ探すのではなく既に自分にあるもの」という真逆の静の色彩に。というかどちらもということなんだろね、そういう感覚的落とし込みがありました。

メトル・ジョンさんにお食事の用意をしていただきました。一日中別々に過ごしているだけだったけれどそれが今の自分にはありがたかった。

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