HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

スケールを大きく(Dakar→Somone)

会社に出勤するコリーナと長々ハグしてまた会おうブラザーという感じでお別れした。ジャカリヤとイスマエルは自分の服の中からいらない服を持ってきてくれた。サンダルが必要だったので尋ねるとジャカリヤは自分が今使っているサンダルを譲ってくれた。

1ヶ月も近くで過ごした良い人たちと別れるのは辛い。「すぐにまた会えたりしないだろうか」と思うけれどその確率って多分低い。そのことを思うと悲しくなったりもする。

人との繋がり。自分が報告する旅は一定数の人からそういうテーマを感じ取って頂いているようであり、つまり自分もそこに焦点を当てているのだと思う。

でも、ほんとは違うんじゃないの?と思っている。良い他人であれ悪い他人であれ、その存在感を強く固くしていると苦しくなるのを感じる。良い他人であれば「たくさん良くしてもらったら恩返しをしなければならない、もっと時間とエネルギーを注いであげなければならない」悪い他人であれば「あいつのせいでおれの人生真っ暗だ、自分の身を守るために離れておこう」良いも悪いもどちらも、自分以外の存在を強固にしてそれを基準に自分の動きを決めている状態であり、本来やっても良いはずの自分を第一にした動きが取れない。これが定期的に陥るネガティヴ状態の元凶のひとつだと思っている。

他人は自分の他に存在する強固な実体ではなく、自分が映し出した像。確かなのは自分の感覚であり自分は自分の道を行く、と、ぐっと強く思って踏み出している。

昨日から気分はすごくナーバスだった。今朝も起きた瞬間ザワザワ。怖い。自転車走行はおよそ3ヶ月ぶり、一人旅はおよそ5ヶ月ぶり。身体や勘が鈍っている。怖がって身体が萎縮してしまう。衣食住の安定した暮らしに慣れてしまったからだと思う。自分の人生トータルではこちらの方が慣れているわけだからサバイバル環境にわざわざ飛び込みたくなんてならない。よっこらしょっと重い腰を上げる時が一番エネルギーを消耗する。

都市部で快適に暮らすのが楽で良いって自分も正直そう思ってる。東京生まれ東京育ちだし。だから怖くて辛くて疲れて汚れる自転車旅に嬉しい要素は自分にとってないはずだけど、その嫌さを通り抜けた時のいろいろぶっちぎった感の気持ちよさってすごい。身体的には歩いた後の筋肉燃えてる感がすごく気持ち良かったりする。体内の老廃物と一緒に気持ちの老廃物も出て行っているような。それをわかっているから嫌でも歩ける。

今日はコリーナが紹介してくれた男性のお宅で泊まらせていただくことに。70キロくらいの道のり。肩慣らしにちょうどいい。

とりあえず暑い。夏がすぐそこ。ダカール周辺で渋滞している車の間をすり抜ける、ずっと排気ガスの匂いが強い、道端でドライバーにフルーツや絨毯や水を売ってる人がいたり、子供がやっぱり「トゥバブ(白人の意味)」とか「スー」と声をかけてきたり。

セネガルは国道以外ほとんど砂地になっていて、目的地まではそこを通らなければならない。自分の自転車では手押しで進まなければならなくなる。これが10km分ほどあって辛かった。。疲れた。すごく疲れた。おれほんとに自転車旅好きなのかな。

到着したメトル・ジョンさんのお宅で食事とシャワーをいただき、とりあえず落ち着いた。メトル・ジョンさんは80歳で一人暮らしをしているおじいさん。「自分の家だと思ってくつろいでおくれ」と告げると自分はアイパッドで動画を見ていたので、自分は一人でゆっくり集中し直すのにちょうど良かった。

ダカールに滞在している1ヶ月の間、自分のペースに居続けられるように集中して、その感じをそのまま走り出してからも活かそうと思ったけれど、この圧倒的強度の運動量の前ではそうもいかないと感じた。書くことと歩くことの両立が難しい。

「イメージしていることのスケールが縮こまっているから伸ばしきりなさい」と高次的な自分(本質を理解している自分=直感)に囁かれている感じがした。サバイバルに対する緊張とか、報告が進まないこととか、つい自然と抱いてしまう「自分には〇〇が足りない」的ネガティブ波動を全部忘れる。お金や社会承認、生存を目的とした自己保存的な思考が自由な発想を止めてしまっている。それすらない素の部分にピントを合わせてみる。