半年で6000km


















食べないことの先に見ているもの
中米コスタリカ🇨🇷の山間の小さな町”サンタマリアデドタSanta Maria de Dota”の宿、”ラ・クエバLa Cueva”では朝と昼にみんなで集まって食べます。
広いキッチンにはお米もパンも野菜も肉も果物もおやつもなんでも大量に常備されていて、好きな時に好きなだけ食べるよう勧めていただいています。
が、そんな中でもできるだけ食べないように意識しています。
朝と昼の合計で成人男性の一食分程度。夜は食べない。
食べ方としては少しずつ、スプーン半分くらいの分量を完全液状化するくらいまで咀嚼。
同じ分量でもこうして意識を通すと養分の吸収効率が上がる気がする。
あとは果物。パパイヤ、パイナップル、マンゴー等、余ってたら気軽に食べるし、ミキサーにかけたジュースを遠慮なく飲んだりします。あとジョギング中に拾うグァバとか。
なので一日の摂取は一食+果物と言ったところ。
朝と昼を食べているのは周りのみんなに安心してもらうためであるところが大きいので、やろうと思えばもっと減らせると思います。
一応断っておくと素材も調理されたものも全部美味しいです。私はなんでも美味しく食べられるけれど、良い味なのかどうかくらいは分かると思います。
75kgだった体重はひと月で68kgまで落ちてました。
あと5キロ減れば身長マイナス110になります。
今の1日の運動量といえば午前中の食事の準備や洗い物、庭の掃除、バーのお酒の補充のお手伝いと10kmのジョギングに少々の筋トレとストレッチくらい。
だから次、路上に出て長距離を移動するようになるともっと補給したくなるかもしれませんが、消耗しない運動法を深化させたりして摂取量を減らせたらと思っています。
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私が食べない理由は「気持ち良いから」で済みますが、現状の私の理解を包み隠さず書いて、分かる人にしか分からないような文章がここから3000文字以上になりましたので、入る前にお知らせはしておきます。
まず、私は三次元から非三次元へ世界観シフトすると決めています。
世界観というのはものの捉え方のことだと思ってもらって良いです。
三次元とは「世界一切は異なった別々の物体でできていて、それらに物体としての身体が反応して体内の諸器官の働きによって感覚が生じる。私の居所はこの身体であり、この身体や内部の諸器官の働きによって生存していてこれが止まることが死であり、終わりである。」という世界観。
非三次元とは「宇宙と繋がった私意識が”宇宙→私意識→超心→心→五感”と次元を跨いだ感覚波の相似的な伝播を経て映し出す感覚世界を自作自演的に体験していて、世界像の向こうに物体はない。様々な異なる存在は私の映す像として同一に繋がってもいて私はどこにもいないしまた全て。私の身体も漏れなく感覚世界像の一部であり、これが滅しても私意識は次の場面を映し出すだけ。終わりとしての死はなく、故にそもそも生きてもいない。」という世界観。
短くまとめてしまうと
物体があって別々である(三次元)
or
物体がなく繋がっている(非三次元)です。
私から見た世の中、古今東西、大多数の人(非三次元的には「意識」)は
三次元が現実で真実、あるいはある程度の超常的な事は認めてもとどのつまりは三次元が現実というスタンスであり、非三次元はごく少数派です。
多数決では圧倒的であるものの、両者には正誤も優劣もなく、どちらを採用するのかは好みでしかありません。
私は物心ついた時からなんとなく世の中とズレていて
地球の常識や様式を理解はできても馴染めない。
野球が上手くならない。周囲にいつもバカにされる。
就職できない。自営業もうまくいかない。
貯金が30万円を超えたことがない。
旅して発信しても誰にも喜ばれてる気がせず
稼ぎ方がぐんぐん多様化しているにも関わらずいまだ経済的に自立していない。
三次元での私は具体的に他者に示せる価値しか勘定できず、
そういう価値のない自分はもう詰んだとしか思えてなかった。
三次元が真実ではなく一つの思い込みであることが解り
別の思い込み、非三次元で捉えていくようになると
こうした私の状態は悪いわけではなくひとつの体験だと
泰然とした構えを取れるようになり、
自分の好きに楽しんでいれば良いと納得できた。
自分の感じ方に純な関心を向けられるようになり
快不快を丁寧に吟味できるようになり、
呼吸の深まり、緊張が緩み、安心感を大切にできるようになり、
根拠なく幸せ、楽しい、嬉しい感じが湧出する感じを覚え、
ザ・無条件の愛に近づけたように思えた。
ざっとこうした変遷を経て非三次元を選ぶに至っています。
で、食べないでいることは非三次元状態を保つのに効果的で、
「気持ちが良いから」というのはそういうことです。
食べすぎると三次元に戻りやすい。
身体の中に物が入ると重くなって物体感が濃厚になる。
食べる時は振れ幅の大きな快楽感があり、その後は欠乏感が大きくなるので、また快を求めて結果、依存的になる。
「この身体に宿る命を維持するために摂取を続けなければならない」
という恐れや制限感が湧き、そのための収入源とか身の振り方の画策をしなければならず、非三次元の無窮の自由さや無条件に湧出する楽しさや幸せ感に影が差します。
無窮の自由な発想、例えば
必須栄養素は光合成とか空気中から摂取するとか、
歩いた先にいつもちょうど捨てられる予定の食べ物が必ずあるとか、
そういう可能性にも届き得るのですが、こういったことを三次元科学や常識ではありえないからと閉じてしまいます。
私は人は元々食活動を必要としていなかった説に注目していて、
食欲というのは本能ではなく、想定された「人類」の延命を目的として個人間の繋がりを強固にして、個の自由を制限するため、先達から仕込まれて身についた思考的、人工的な感覚ではないかと疑っています。
ちなみに味や見た目の美しさを探求する美食は芸術なので食欲とは別ものです。
私は作った人ならではの味を発見するのとか好きですね。
物体の所有を引き算するほど目覚める自分本来の感性がある。
これは食に限らずお金、衣、住、他者との繋がりにも当てはまると思うし、命についても考察すると面白いです。
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というわけで不食も標榜しての減食なのだけど現状の私にはまあ無理。
庭の落ち葉集めでしゃがんでるところから立ち上がった時に強めの立ちくらみが出たので、すぐに補給しました。で、今の食事量で落ち着いてます。
やろうと思えばすぐできちゃう人もいると思うけれど私はダメね。根本的に根性がなく適当なので「これは中道だもん」とか言い訳してます。
不食を実践されてる方の動画を見る限り感謝幸せオーラが常時溢れ出てたけど、オレもあれくらいになればできるかもな。私の顔を見るなり「チナ!(中国人)」とかチクッと刺さる音を投げつけてくる酔っ払いにも笑ってありがとうとかな。
でも、これまでの自分と比べれば全然進んだと思います。
20代までは競技の為の体作りもあって大食漢だったのが今や一日一食。
この緩やかな空腹感も三次元基準で判断せずにただ観察していると
気持ちよさだと感じられてきたりするから不思議なもんです。
味の嗜好も濃い味への関心が薄れた。
B級グルメや既製品の類からは依存性を誘発する作為を嗅ぎ取り、
素材だけとかほんのりとした薄味とかには迎合のない自然さを見出してる。
あと、肉に興味がなくなった。代わりに豆が尊く感じられる。
中南米ではよく黒インゲン豆を柔らかく煮込んだものをご飯と一緒に食べるけれど
地味な味わいや食感ながら栄養学的にはタンパク質や鉄等「もうこれだけで良いんじゃね?」と思えるほど豊潤で、飾らない実力派の職人みたいな感じが好き。
空きっ腹にゆーっくり食べるとしみじみ美味ぇのよ。
あと、私の食欲はストレス由来が多かった。
頭で思っているだけで身体の求めじゃないやつ。
だからストレスを溜めなければ食べなくて済むかもしれない。
非三次元ではナチュラルポジティブでいるのが当たり前で、
少しでも嫌な感じがしたら三次元モードに入っているサイン。
なので非三次元に戻るためのワークや休息、
滞在先のお手伝いや運動や呼吸に集中だとかで嫌な感じを手放して終わり。
気の進まないことをやらざるを得ない時も心の中で非三次元モードのキープに徹して精神的な消耗を抑えたり。
身体の動かし方も自分の筋力で動くより、良い姿勢で重力や自然の力を借りる意識に徹して身体的な消耗を抑えたり。
三次元世界を唯一の真実とせず、非三次元に居続けること。
その上でネガティブ感の元をあらゆる方面でモニタリングして気づき次第手放すこと。
この習慣のおかげで今の状態まで辿り着けていると思います。面白い。
生まれた時からずっと社会の仕組みや世相に疎い私が言っても締まらないのは承知の上で言いますが、あらゆる問題の要因を煎じ詰めれば自分や自分と呼べる範囲の他者や財が衰滅することへの恐れです。
これを非三次元的に見れば、そういう世界を映し出して見ている私の中にその恐れがあるということ。その最たるものである生存のための食の手放しに抱くロマンは壮大です。
一生かけてもできないかもしれないけれど、肝はこのワクワク感なので達成度は気にしていません。それが冒険だしね。
楽しんでいるうちに来世とか再来世で達成するかもしれないし、三次元世界観の屋台骨の一つである時間思考を手放していればずっと今しかないので、その長さも気になりません。
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野良人間になっても食いっぱぐれることはないことが分かって安心した。
だからこそ、私の本当の幸せはまだまだこんなもんじゃないことが分かる。
私はもっと上に昇りたい。
それは食べるとか食べられないとか、生きるとか死ぬとか、正誤、優劣、幸だ、不幸だとかの三次元的二元論を撤収し非三次元的に統合すること。
つまり「どんな目にあっても楽しめる」という無敵心地です。
これは清貧、知足、離欲といった清澄な悟り心地ではなくむしろバリバリの超強欲。
過去の過ちも軒並み正解にひっくり返しての全勝狙い。ドリーマー心地です。
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最後に念の為補足です。
私が不食始め諸々引き算の方面に関心が向くのは天性の身体の頑丈さが土台にあるからと思います。我ながらこの一点においては天才だと思う。
反対に食べる、得る、ということが必要な角度(魂)もたくさんいらっしゃるように見受けられますので、私のアプローチそのものよりエッセンス的に有益となる部分があれば幸いです。
📸
1 La Papa del Corazón(ハートのポテト)

2 調理の先生によるお昼ご飯feat.昨夜のピザ
3 バナナはバター焼きのシナモンがけも良し

4 グァバは皮ごと食べられる
5 欲への素直さの先生
