HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

死んでも意識が続くだけ

忙しい手を止めてゆっくり深呼吸をしてただ自分がここに在るだけという視点に立つと思うことがある。確証もない受け売りだけど本当にそんな気がするという直感の話。でもきっと確証よりも直感の方がアテになるのだろうと思う。

「死んでしまったら全てが終わり」という考え方は仮説のひとつに過ぎなくて、むしろ、記憶があったりなかったりしつつもこの意識がずーっと続いていくような気がする。あの世みたいなところがあるのか、それとも輪廻転生みたいに次の人生に移行するのか、はたまた別の形か。なんであるにせよ、この意識が作出するものを感じていく。それが続いていくだけ。

最近泊まらせてくれている3人と一緒に『クイーンズ・ギャンビット』という50〜60年代のアメリカが舞台の孤児だった女性が些細なきっかけでチェスと出会い、才能を開花させ、女性の入れなかった当時のチェス界で成り上がっていく物語をNetflixで見ていた。物語の核心というわけではないのだけど、彼女が名を上げていく中で度々ら幼少期の両親とのトラウマ的な記憶が断片的にフラッシュバックして来るシーンを見て「ああ、こういうことを昇華させていく事が大切なんだろうな」と思った。

家族の関わりとか幼少期のトラウマとか、そういうのももちろん大きいと思うけど、要は自分の認識の仕方に刻み込まれているプログラムが、本当に自分の望むようになっているのかということ。深い部分で自分の声を誰かの声とすり替えたりしていないかということ。それに気がついて自分の本来の望み通りに整えていく。この営みは生きているうちだけでなく死んだ後もずっと取り組んでいくことになるのだと思う。

その取り組みの進捗は地球の尺で測れるとは限らない。投稿がなかなか書けなくて焦ってくるのは、生きているうちに何かを為すとか、一定数以上の他者や社会から認められるとか、生存したいとか、地球の尺で測れるところを求める根性が根底にあるからで、その意識の使い方を変えない限り、手を替え品を替えいくらでも同じ形式の焦りが来世にまで渡って続いていきそうな気がする。

だからその焦りを運動だの瞑想だのも駆使しながら手放してエネルギーとか調子を上げて良い状態に整えることを頑張る。見えている世界をいじろうとするのではなくそれを映し出している私をいじる。これが死んでからもずっと続いていくような気がしてきている。