HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

昔の自分が出てくる(Malikounda)

自分なりに世の中を見渡した限りの感想でしかないのだが、自分はこらまで何一つ苦労らしい苦労をしたことはない。生まれつきこの心身には障害のような大きな不自由はなかった。家族との関係はまあ嫌な思いをしたこともあると言えばあるけれど、いろんな他の家族関係を見てから振り返れば些細なことであり、まあ贅沢な人達に恵まれたと思う。他人から理解され難い個性を共有できなくて切実な思いに駆られなくても生きてこられた。べつに能力が高いわけでもないのに2014年から思いついた個人事業で食い繋ぎ、尊敬できる人や助け舟を出してくれる優しい人にも巡り会うことができてむしろ面白かったなぁと振り返れるくらい楽しくやってこれた。今だってこんな誰もやらないような無茶なスタイルでの旅がお陰様で2年半も続いている。自分よりも本気で命をかけて努力して生きている人をたくさん知っているから、頑張っている実感はない。確かに苦しい時というのはあるけれど心のどこかでいつも自分の「選んだことだから」という前提があるので結局大丈夫。

かくして自分の人生について思い浮かぶことを挙げれば挙げるほどぬるい難易度の人生だなと感じる。

そんな自己認識だから本当に苦労している人を見ると申し訳なく思ってその罪悪感を祓いたくなる。手を差し伸べるという行為を通して。

日本という世界有数の経済大国の中でその中でも屈指のぬるい人生を通ってきた自分がセネガルのタリべの子供達を見るときもやっぱりそのスイッチは入る。親元を離れて廃墟の中で身を重ねて雑魚寝し、身体や衣服を洗濯する設備も機会もない。アラビア語で書かれたコーランの文章を書き写したり暗唱し続けるだけの授業しかないから数字やアルファベットも知らない小学校中学年くらいの子供もたくさんいる。食べ物は米粒や小さなビスケット等片手で包み込んでしまえるくらいの食糧が一日一食あるかないか。もっと食べたければ物乞いやゴミ拾いで稼いだ金で調達しなければならないし、その中の幾らかは指導者であるマラブーに徴収される上にそれは一日のノルマにもなっていて、達成できなければ体罰を受ける。身体に鞭で打たれたような跡が消えない子供たちも見かけた。日本やヨーロッパではまるっと太った子も割と見かけたけれどこっちの子供たちは押し並べて細い。自分の伝え方の拙さのせいで伝わらないのかもしれないが、そんな彼らと相対した温室育ちの自分としては「とんでもない事態だ」という感想を持たざるを得なくなっている。

充分すぎるほど豊かさを享受してきた自分には余裕があるのだからなんとか手を差し伸べなければならないと反射的に思ってしまう。ここで何もしないのは見て見ぬふりをするクズであると。

今この状況で真っ先に考えられるのは今関わっている団体へ資金を提供することだけど、まず自分には財力がない。写真と文章で人に訴えかける媒体を作ってファンディングをするのももちろんありだけど、予感の風が吹いてこない。財力がないのは自分に表現者としての能力がないからであり、予感の風が吹いてこないなんて言いながら結局やる気がないだけとも思える。30年以上たんまり豊かさを享受しておきながらのこの体たらくは見て見ぬふりをするクズと変わらない。かくしてセルフダメ出しのネタになる。正確にはクズな自分だと他人から自分の納得いく形で受け入れてもらえない。そこがコアなんだろう。なんであれ、解決するには具体的に努力して結果を出すしかない。

というのがこれまでの自分の考え方だった。

今はそうじゃない。じゃあ何かってことはまだちゃんと伝わる言葉にできない。漠然とした言い方でごめんなさいと前置きして言えば、こうした自他の認識の仕方、そこからくる罪悪感や自己否定感等々、根本から全ての的が外れている説を自分の直感は提唱していて、全然異なる世界観に自分は行こうとしている。

「国際協力のNGOに勤める」というのが最初のプロ野球選手に挫折した後、最初に思い描いた将来像だったから今いる場所はまさに、その将来像真っ只中で、当時の古い自分の感性が色々と出てきやすいのだろうと思う。色々な雑用をしたり子供と遊んだりしながら、心の中ではそれをじっくり確認して手放すようにしたり、今の直感に合うようにしたり、色々な調整をしている。そういう作業をこの支援現場で行なっている。

日曜日の今日は完休日。

※今日の写真はないので某日より