HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

結婚こそが人生の幸せ(Khombole↔︎Thies)

イヴァンが家の人たちから聴いた情報によると今日は「セネガル大統領に会える」とのことだった。時間になるとこの町中の人々がたくさん集まってきて、10台以上のバスにぎゅうぎゅうに乗り込んで移動。

会場であるスィエフThiefという街ではさらに別の町から大勢の人々が集っていた。その様相はデモ行進のようでもあり、パレードのようでもあった。横断幕にはそれぞれの町の町長の名前と顔写真がプリントされている。トラックに積まれたスピーカーから大音量の音楽が流れ続け、アフリカらしい小刻みなビートの太鼓の音が鳴るところでは人々が踊りまくっていた。

人々がワイワイしているのは良いのだけど肝心の政治家たちを見かけない。結局ぼくとイヴァンは大統領の姿を見ることもなく、数時間ほどですぐにまたバスに乗って帰宅した。帰ってからすぐにパレード?の様子が映し出されているテレビ放送にみんなは釘付けになっていた。イヴァンが後から聞いた話によると参加者全員に町長さんから2000フランが配られたらしい。

帰りのバスの中で女性たちの近くに座った。もう外は暗くなっていて、車内では小さな赤いランプが点いていた。

小さな少年を挟んで隣の女性が少し英語ができるので少しだけ話をした。

ぼくの素性の話をしているうちに家庭の話になり、ぼくは自分が独身であることを伝えると、彼女はずっとぼくに「結婚するべきよ」とものすごい勢いで推してきた。

結婚ね。ひとどころに定住するとか、結婚制度が人間の摂理に合っていないくらい面倒臭いとか、家族を養うためのお金を稼ぐことなどできないとか、思うところは色々あるけど、それよりもっと前に自分は継続的に人と関係を構築していくことができない。友人とシェアハウスして住んでいた時や付き合っていた人と同じ部屋で過ごしていた時はもうどんどん自分の元気がなくなっていった。どの人も何も問題のない素晴らしい人たちなのに自分が勝手に暗くなっていく。それは自分の人間性に大きな欠陥があるのだと思ってセルフダメ出しをしていたのだけど、人生、誰とも良い関係を構築できなくてもアリ、と思えるようになってから楽になった。それからは結婚の重要性はもう消えたと言っても良いくらい自分の意識からフェードアウトしている。

でも今、目の前にいるセネガルの女性は「結婚したくない」という自分に「結婚しなくちゃダメよ、それが幸せなのよ」と訴える。何故かと問うても「ご飯を作ってくれる人がいないでしょ?」とか「家を守ってくれる人がいないでしょ?」と返され。「どれもそれは自分には必要ないです、それよりも旅ができなくなることが不幸です。」と返しても「結婚しないなんて不幸だわ」の一点張りだった。

昔の日本もこんな感じだったんだろうなと想像できる。結婚、仕事、家族、男の役割、女の役割、予め社会の中で人生の答えは用意されていて、自分の中の違和感とか異なる考え方とか感覚なんてもより、その社会の中でもう決まっている答えをクリアできるかどうかで評価が決まる。アルバニアでもこういう話をしたことがあり経済発展途上国にはこうした傾向の価値観になる。

外から見た自分はそこに息苦しさしか感じられないが、当の本人たちはそれで喜んでいるのだと思う。一つの価値観の元では結束しやすい。その結束から得られる安心感とか一体感とか愛国心のようなところに生き甲斐を感じたりするのだろう。

セネガルの人口は65%が20代以下の若者。今の日本からは想像もできないけれど、つまりそのくらいの勢いで人が増えている時というのは、こんな風にみんなが無条件に一つの価値観を共有しているのだろう。ぼくみたいに群れから外れようとする人間なんてすぐに引っ張り戻されるか淘汰されるのかもしれない。

「あなたの幸せとぼくの幸せは違うんです」と何度もジェスチャーと平易な英語で訴えたけれど、彼女は引き続き自分の主張を続け、しまいには返答しなくなるだけで、もはや何も話し合いの余地もないのだなと思った。

今の日本ではまだまだ足りていないとはいえ、ずいぶん多様性も謳われるようになってきたけれど、こうなるまでに各家庭をはじめとして様々な場所でこんな不毛な戦が繰り広げられていただろうなあ。