コンボルKhomboleという町の町長さんのお宅にイヴァンと二人でお世話になっている。今日も一日作業日。といってもここ数日、あまりブログの方は進んでいなくて、自分の身体とか意識の使い方に焦点が当たり、そこで私的にワクっとする発見をしていくことを楽しんでいる。その姿はほとんど何もしていない人なのだけど自分の感覚を辿っていく過程ではそういう、人には全く理解されないけれど自分としては確かに理解できる期間というものがあるのだ、とすごく思う。
もちろん自分の感覚の変化の話なんて周りの人たちに伝えてもその楽しさを共有できる気がしないし、更に今現在は周囲と日本語でコミュニケーションをとることは出来ず、へっぽこ英語でやりとりしなければらないのでもっとできる気がしない。一緒にいるからといってイヴァンに共有したりもしない。それは一見辛そうなことかもしれないけれど、ぼっちでも大丈夫だということはだんだんちゃんと理解できてきているので、見た目以上に楽しんでやっています。
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静かに座って意識の位置を確認していた。今日はその高低の違いをはっきり自分の感覚で確認することができた。
昔のことを思い出していたり、今すぐ手を回せないやるべきことに気を回していたり、これからの楽しみな未来を想像していたり、答えのない難しいことを考えているときなどなど思考やイメージに居る時は意識が頭や胸といった高位置にある。
意識の位置を下に降ろして丹田や腰の辺り、立っているときは脚も良い。低位置に置くと頭や心のイメージや考え事が小さくなって静かになる。何も考えていない。無。凪いでいる。この方向性でずっと極限まで行けばゾーンに入った状態になる。
ぼくはもうずいぶん前からお節介な友人から「丹田にいろ」ということを言われてきたのだけど、実のところちゃんと感覚レベルで理解できていたわけではない。やろうとしてもできているのかどうかさえ自分の実感で判断することができなかった。本来とても不定型で流動的な自分の感覚なのだけど、「丹田にいる」という固定された状態を頭できっちりと理解してできるようになろうとしていた。今から振り返ると頭できっちり理解しようとして感覚の起動を妨げていたのが遠回りの原因である。
現実の運用の転び先がどうでも良くなり、だんだんとより純粋に自分の感覚に集中できるようになった今、ただじっと座りながら意識の位置の高低がちゃんと存在し、それらが全く異なることを実感できる。感じるようになってからその方法を言葉で書いてみると友人が言っていた言葉と同じ、本当にただ「丹田にいる」だけなのだ。筋肉とか骨の動かし方や位置どりと、イメージ方法とか、細かいことを追い求めようとすると上手くいかない。ただパッとなんとなく思いつくままに丹田にいると意図するだけ。日に日にその感触が変わっても構わない。できているかできていないかという現実世界の物差しでの正誤の深追いをしない。くらいがちょうど良い。
人から仕入れた情報、知識としてだけではなく、自分の感覚ではっきり感じ、確信を持てるようになる。この変化はとても大きい。これからの旅の荒波の中で丹田に戻ることはとても役立っていくと思う。