HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

見えない導きに生かされる世界(Meknes مكناس)

1日カフェに引きこもって作業です。朝の8時から夜の22時まで。本当に一日中です。7ディルハム(100円)のお茶だけ注文してずっと居座る客にパンケーキを分けてくださるカフェのオーナー様(写真右上のボケ部分に写っている黄色いセーターのお方)、ありがとうございます。

昨日、久々にSNSに投稿し反応をもらって揺らぐ気持ち。ポジにしろネガにしろ、やはり反応が明確に見える化しすぎるのは堪える。いろいろ悪い方向に勘繰ってしまって精神衛生上よろしくない。

南米、東南アジア、欧州、計20カ国くらいの人々の様子を実際に眺めた実感としてFacebookInstagramは世界中で利用されています。仕事中の暇な時でも休日もスマホを片手に短い動画を流し見してる人の多きこと。そんな社会情勢のおかげで出会った人たちとの連絡には困りません。これまでお世話になった人や出会った友達は大抵このどちらかで繋がっていて、ぼくの更新を楽しみにしてくれる人も少なからずいた。

が、自分はこのSNS投稿が主に自分の精神衛生というなんとも説明し難い事柄が理由でなかなか手が伸びず、それでもどう使っていこうか考え、ストーリーズ毎日投稿も3ヶ月間とか試してみたけど、なんか違うなあ〜感。

考えても答えは出ないので棚上げ。「おまえなんで投稿しねえんだ?」と現地で出会う人に指摘されてもうまく返答できず苦笑いを返すだけ。もやもやはずっと続いていました。

からの、昨日の投稿。

これは10月17日のブログ更新再開のちょっと前からぼんやりと浮かんでいた構想です。毎日のブログ更新を一定期間でまとめてお知らせするようなイメージで1週間(隔週でも良いかも)に1回のダイジェスト。これなら自分も友達も世界も全てがよろしい感じにまとまるのではないか、ということでやってみました。

ちなみにぼくがブログをベースとして採用している理由は以下の3つです。

①投稿記事の日付を変更できるので、インターネットが取れない、心身の調子が悪い等の理由で更新できない状況が続いても後から遡って当時の記録を投稿できること

②カテゴリー別、日付別、ワード検索等、過去記事への検索機能が充実していてアクセスがしやすいこと

③時間が経過してもアップロードした写真の画質が保たれていること

その代わり、SNSのようなアクセスの軽やかさがありません。ロードするのにももっさりおっそい。コンマ何秒の違いだけどこれが果てしなく不快だと思う。写真も文章も毎日構成はてんでバラバラで、見にくい。SNSのような訴求性は決定的にないと感じています。つまり、単純にぼくの旅を見てくれる人の数は激減する。

SNSで繋がった現地の人なんかまず見にこない(日本語というのも大きい)。もちろんこれは自分の能力で紡ぎ出せるコンテンツの場合であり、ブログそのものが悪いと言いたいのではありません。だから、今回の調整で、もう少し見てもらえる人の範囲を広げてみました。しばらく続けて様子を見てみようと思います。

8年前、自己表現で生きようと決心した時はフォロワー数やアクセス数や再生数やチャンネル登録者数がマネタイズにつながることを知り、いかに多数に大ウケするコンテンツを作れるかというマッスルな勝負に「いっちょやったるわ!」と、意気込んで臨んでいました。

ぼくは就職において周りのみんなと同じ速度で進めませんでした。内定なんてものはもらったことがなく、4年生大学卒業後の人生に希望が持てず、ずるずると2年間も留年しています。自立ができない。自活ができない。同級生など、周りにいた人たちがスルスルとやってのけていったことが自分だけはできない。どうしたいのかもわからず、自分一人が生きる分のお金すら稼げず。そのことに対するコンプレックスは強かった。だからマネタイズにつながる「数」を稼ぐマッスル勝負に賭ける想いは相当に強かった。言ってしまえば今もその状態は続いていると言っても良い。

でも、それから出会う人達からはいろいろな形で「そうではない世界」が存在することを示唆されてきていた。自分も薄々まあまあ、頭では理解できていたけれど、根っこのマッスルモードは完全には切り替わらない。

旅立ってからもずっとそのマッスルモードをひきずっていたので、やれ良い写真、やれ動画らやれ奇抜なアクション、と骨のないアイデアが浮かんでは消えるというような堂々巡りで、結局何をしたら良いのかわからない迷子状態に陥ることも多々ありました。理想はやたらマッスル。でも心身はついていかない。

そんな不器用極まりない自分でも2年と4ヶ月、ひたすら誰かに助けてもらうというショック療法のような状態が持続すれば流石に「そうでもない世界」を実感できるようになってきた。そう感じています。

「数」はほぼ皆無でも生きることが出来る。工夫の余地はあちこちにある。その上、その工夫を重ねた先は多くの人が見過ごしているかもしれない新しい生き方の可能性につながっているかもしれないとワクワクすることまで出来る。出会う人からは「神はどんな人も見捨てない」というフレーズをよく聞いていたのですが、それはこういうことか、と思う。

もちろんその「そうではない世界」を優先的に見ることができるようになった主たる理由はこうしてネットを介してぼくの拙い言葉に耳を傾けてくれる人たちや現地でなんの見返りも求めず楽しんで助けてくれる人たちのお陰です。ありがとうございます。もっと続けて、この「そうではない世界」の様相も、世界の様子と共にリポートしていきたいと思います。「そうではない世界」の現時点で出来た言語化は本記事のタイトルです。