HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

静が肝要、無期限旅(Meknes مكناس)

正午まで瞑想。いつも12時を過ぎてから起きてくるワリッドが用意してくれた「朝食」をいただいた。いつもありがとう。

お茶を淹れる時ポットを高く上げるのはモロッコの標準です。淹れてポットに戻し、また淹れる。

軽食の時はオムレット作ってくれて、そこにパンをつけて食べてます。若年男子らしい簡単な料理で済ませる感じ。ぼくには十分すぎるくらい、もちろん美味しいです。

夕方までカフェ作業。もちろん店は変えた。新しいカフェの店主さんは言葉も通じず静かな人だけれど、Wi-Fiをもらってありがとうと伝えると微笑みを返してくれた。温厚な空気感を感じて「そうそう、これよこれ」と本来のカフェの在り方(主観)を確認した。

そして持ってきてもらったお茶に

伝票ついてる!そうだ!これだよこれ!これが普通よな。どんどん昨日のカフェの存在が自分の中でスケールダウンしていった。

あと、ヒジャブムスリムの女性がよく頭部から肩あたりを覆うスカーフ)を巻いた女性が店内を掃除していたのだけど、これもポイント高い。カフェはムスリム文化の中ではほとんど男性のための場になっている。客にもスタッフにも女性は少数派。流石に都市圏なら違うだろうけれど、もう田舎に行けば完全に男子。

なのだけど、掃除一つとっても女性はやっぱ違うよ。気配りの行き届き具合が違う。もう、気、そのものが違う。居心地が、良い!!

それからアブドが仕事から帰ってきて3人でタジン鍋を囲む。じゃが芋がごろっと柔らかい。

中心部には鶏肉です。素手でいただきます。美味いよー!

夜は2人に写真の印刷ができる場所に連れて行ってもらった。昨日今日で選んだ47枚の画像データを1枚ずつプリントする。写真用紙にではなく普通のA4用紙に。1枚2ディルハム(28円)。

お店の人とのやりとりは2人が中継してくれてスムーズにこなすことができた。ありがとう。印刷した画像たちを材料に、あるものを作ります。

↓印刷屋さんを探している途中、とある写真屋さんに置いてあった。アマーズィーグ(「ベルベル人」と呼ばれる人々のオリジナルの呼び方)の民族楽器だそうです。

弦楽器は「ベンディルBendir」、手前の打楽器は「ロターレLotare」というそうです。

印刷の用事が済んだ帰り道、果物屋台でバナナと柘榴を補充する二人。

おそらく、多くの人にとって旅だとか旅行というものは時限です。数日でも、数年でも、長い人生の中の小さな一部分となるケースがほとんどだと思う。要は時間が限られている。時間が限られているのだからその中でできるだけ濃く、たくさん、旅先ならではの体験をしたいというのは自然なことです。少なくともぼくがその状況下であればそうすると思います。

ところがぼくの場合じゃ時限ではありません。無論いずれは終わるのでしょうが、それは8年以上も先だと標榜しているし、もっとぶっちゃけて言えば明確に「ここまで」とは決めていません。

「好きなだけ自由気ままに旅行ができるぜーへっへーん♪」という自慢がしたいのではありません。むしろ逆です。我が心身を以て2年と4ヶ月間、衣食住0ベースの旅を続けるのはなかなかしんどいことだと実感しています(個人的にはそのしんどさも楽しんではいますが)。ぼくのような変態でもしんどいと感じるのだから、きっとこれはほとんどの人にとって耐えられないものだろうと思います。「ああ、お家でゆっくりしたい」と思うことも多々あります。

だからこのような旅の場合、「逆の動き」が大切だと実感しています。旅の逆、旅をしない時間、止まる時間、休む時間、準備する時間、まさに、それが今です。「それも含めて旅じゃん」って言っちゃうと話が止まっちゃいますが。

ロッコに入ってから誰かの家の中に上がらせていただける気配はなく、ゆっくりとネットに繋いで色々とやっておきたい作業をするどころか、一息つく暇もありませんでした。これがキツかった。自分の足で自由に世界を歩き回ること好き好んで取り組んでいますが、24時間365日ずっとそれができるほど冒険ジャンキーではありません。なんたって幼少期思春期青年期の多感な時期はただ家でテレビゲーム漬けになっていることが幸せだった人間ですから。

このメクネスで繋がったアマーズィーグの二人、アブドとワリッドの住まうアパートで休み、身体の調子に余裕ができたおかげで、今のうちにやっておきたいことが浮かんできたのでそこに手をつけていきます。これが後々の旅のしやすさに繋がっていくし自分のやりたいこと(はっきり自覚はできないが魂が行き着きたい場所、という意味合いでの)にも近づいていく予感がします。