HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

勝負しない人生(Meknes مكناس)

14時ちょっと前まで惰眠。

それから夜までノマドらしき人がたくさんいるカフェで7ディルハム(100円)のお茶を頼んでずっと作業。これまで撮ってきた写真をずっと見返すのに時間を割く作業なのだけど、日本で撮ってきた写真を見ていていろいろな酸いや甘いを思い出し、なんとも味わい深い楽しみを思い出して、今の自分に活かすヴィジョンも見えてワクワクした。

アマーズィーグの旗にあるマークをあしらったキーホルダー。

キッチンに並ぶモロッカングッズ。

夕飯にオムレットを作っていただきました。

今日も民謡が響きます。

毎日あたたかいものを食べられるって本当にありがたい。ありがとう🙏

今日の音声。

今までの人生で自分に馴染んでいる「人生は勝負だぞ」的思考は長らく自分の大小様々な決定をガチガチの恐怖ベースにした。旅に出るにあたって写真で頑張ってお金を稼ごうとすることも、今日は何時までに出発するということも、あの観光地の写真を撮ろうと予定することも、食べたいおやつがあるけどお金がないから控えることも、もっと言えば一挙手一投足の全てに至るまで、全てに染み付いていると思われる自分を追い込むベクトルの脅迫観念。それは自分が勝負という土俵の上に人生を見ていて、そこに負けないように勝てるように常に細心の注意を払う。そこに楽しみの余地はない。

「人生は勝負」感を馴染ませるに至ったのは一般的な男子らしい幼少期にいろいろな物語からヒーロー的存在に憧れたからで、それは何も不健全なことではなく、素直に従っても良いものなのだろうけれど、先述の通り、楽しみの余地のない緊張状態が不健全だとここ数年ではっきり思うようになった。

というか、今にして思えば10年くらい前から「勝負の世界から脱するべきだ」と心の芯の部分で気がついてはいたけれど「世の中の常識の方が自分よりも確かな感覚で回っているのだからそこに従っているべきだろう」と、自らの気づきに焦点を当ててクローズアップせずにスルーしていた。

それでも、これぞ引き寄せというものなのか、心の芯で本当に関心があることに引き寄せられるようにどんどんその方向に持っていってくれる他人や情報や出来事に出会って行った。今では世の中の常識と自分の感覚の力関係は逆転して、できるだけ自分の感覚にフォローする様に意識的に心がけることができるようになった。

旅をして見聞をできるだけ広めて人々に共有して行くことを仕事、すなわち「わが人生の勝負」と見立ててきたようなところがあったけれど、自分の本来の形と合わないような気がする。一度取り払ってしまって、まっさらな白から自由に飛び立つ。