誰に聴いたわけでもなく広い公園にテントを張った。
カメラも何も持たずに広い景色の公園の芝生に立つ。息を足の裏から吸い込む。頭頂部から息を吐き出す。
立っている時は地面に向かって重さが働いているから、物理の授業で習ったような力のベクトルで示すなら矢印が接地面(足の裏)から下に向かって伸びている。ということは地面からの反作用も受けているので同時に接地面から上に向かっても矢印が伸びている。つまりは地面を押しているようで、押し返されてもいる。言い換えると地面から力を受け取っている。
化学だろうとおスピだろうと人からの又聞きだろうと自分で勉強したことであろうとそれがいつ知ったことであろうと自分のイメージに使えそうなものはなんでも使えば良い。
この時もその力学をイメージの入り口にするのは役に立った。
そして、イメージを自分の解釈で広げる。
受け取っているのは物理的な力だけじゃない。エネルギーとか、気とか、自分の足しになるもの全てを受け取っている。大地は自分をサポートしてくれている。
この世のありとあらゆる全ての物は別々に存在しているように見える。けれど、根っこでは繋がっているような気がする。
すべてがもともとは同じ一つのものであるような気がする。自分も目の前の木々もあの高い山も元を辿ればおんなじ。
それは科学の授業でかじった程度の原子だか分子だかの知識を通して考えてもそう思える。死ねばこの身は微生物に分解されたり骨も風化したりして何か別のものになっていく。生物でなく物だってそう。長い年月をかければ形は崩れて別の何かに移り変わっていく。
そう思うと別々に存在しているものも結局同じもので、結局全てが同じ、ひとつのものに思えてくる。
すると視点が引けていく。自分という視点から宇宙全体に開けて行くような気がする。
自分も、他人も、元々一つ。国境なんて愚か、生物としての種別だって、物と生物の区別だって本当のところは、ない。はっきりと別れて別々に存在していながら、本質的には融けあって混ざり合ったまるごとひとつの存在でもある。
地面に立って目を閉じる。
この足の裏から全てと繋がっているような感じがする。自分もその他全ても融けていく。自分は全て。全ては自分。
全てと一体であるなら、全てが全て自分次第とも思える。周りを敵だと疑うから敵だらけになり、周りを仲間だと信じればみんな仲間。ただそれだけ。好きな世界を自ら選ぶだけ。
夜の公園で、足踏みしたりゆっくり歩いて、そういう感じを感じていた。それがものすごく、ものすごく気持ちよかった。
ああ、こういうの、こういうのをやっていきたいんだよ。異国の文化を知ることも、走った距離を増やすことも、真新しい体験をすることも、素敵な人と出会うことも、自然と生まれる日常の一部であって目的ではないんだと思う。自分はもっと目に見える世界よりももっとすごい豊かなものに触れようと、この足で歩きながら探っている。
・・・
この日からビデオリポートを始めた。とりあえず一日一回以上、画面に現れて喋り続ける。毎日なんてそんなに見栄えはしないので24時間で消えてくれるSNSのストーリーズに投稿。SNSをやっていない人向けにYoutubeにも投稿。こうやって毎日旅の風を吹かせていこう。そういうスイッチが入った。
・・・
ナポレオンルートというのか
スーパーでバゲットとオレンジジュースを調達して食べる節約メニュー
看板のデザインも洒落ている。
自転車優先マークが多い。ありがたい。
桜の季節。
グレノーブル
岩山の上の遺跡が観光地らしい
大きな岩山がすぐ近くに聳え立つ公園だった。