HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

三次元に主導権を譲らない(レッジョ・エミリアReggio Emilia)

ちょうど1ヶ月ほど前に調子を落とし、それから旅先のリポートよりも自分のペースを感じることに焦点を当て始め、片鱗程度の濃さでしかないけれども、そこに対する一つのアンサーを掴めたように思う。

その肝は物心ついた時から当たり前のようにやってきた「物がある」とする想定から俄には信じ難い「物がない」とする想定への移行だったと思う。

「物がない」想定は、この世に存在していると感じられる、この自分自身の身体や想念も含めた全てのものが映写機から映像を映し出しているように、自分が自分で映し出しているから感じられるだけの像と捉えること。全てが自分自身で作った幻でしかなく、喜しい瞬間も苦しい瞬間も全て自分ででっち上げている。

いつも自分の元気がなくなる瞬間というのは自分自身の存在の無価値観だとか、多くの人に認められる労働という形でお金を自分の懐まで引っ張ってくることができないことだとか、こうやって必死こいて写真の編集をして文章を書いてブログにアップロードしても知識も教養も文章力も表現力もその他諸々の実力も足りないからアクセス数は伸びず、すごく良い反応もなく、自分の努力なんて誰の心にも届かねーわ感とか、それなのに投げ銭をもらっているなんてもはやお情けでしかない、ただただ申し訳なさが膨らむことだとか、旅すると決めた自分に母親が「お前はいつになったら誰かの役に立とうと生きるようになってくれるのかね」と悲しそうに嘆いた記憶がフラッシュバックするとかまあそんなところだけど。

「無価値観」も「多くの人」も「認められる」も「労働」も「ブログ」も「写真」も「知識」も「教養」も「文章力」も「表現力」も「アクセス数」も「良い反応」も「努力」も「誰の心」も「投げ銭」も「申し訳なさ」も「母親」も「『誰か』」も「『役に立つ』」も「悲しそう」な「嘆き」の「記憶」も「自分自身の存在」そのものも、全てが全て、自分が自作した像でしかないと想定する物の見方ができる。

そこに気がつかず、それら全てが確かに存在すると絶対的に信じている、つまり三次元に主導権があると信じている限り、これらの状況次第で気分が上がったり下がったりするし、だからこそ全てがうまくやりくりできるよう試行錯誤を重ね続ける終わりなき戦いに身を投じなければならない。

それを楽しむことができる人にとってはそれが良いのだろうけれど、自分にとってそれは無限地獄のようなもので、生きていることへの幸福度はとても低い状態であると言わざるを得ない実感がある。

全てが全て自分が自作した存在たちでしかないと想定する非三次元的な物の見方ができると、上記の元気がなくなる系の思い込みは全部自分が作った幻でしかないので、自分で作るのをやめれば良いだけ。そして自分が嬉しくなれる幻を映し出し直すだけ。これは主導権が全て自分にあるので無駄に疲れることがなく、より自分の魂の幸福を追求できそうで面白そうです。

無論、どちらの世界に生きるのも正解でも不正解でもないし、どちらが偉いわけでも卑しいわけでもなく、それぞれの人が自分に合ったものを選ぶだけなのだけど、とにかく自分は非三次元的な捉え方にものすごい可能性を感じるのでこちらをチョイスしたい。

けれどそんなの頭で分かったって一瞬でパッとできるようになるわけではない。なんせ30年以上もの間「物がある」とする想定を、そもそも「想定」という概念にすら頭が回ることもなく生きてきたのだから。三次元的な捉え方が魂レベルで癖になっているのです(それもまあ想定をいじるだけで変えちゃうことができるのかもしれんが、少なくとも今の自分にはできてない)。

だからこの期間、その関連の発信物を見て、聴いて、読んで、自分でやってみる、すなわちじっと座って何もしないで瞑想する。「旅の最中だからその地でしかできない真新しい体験をしてシェアしなければ誰も相手してくれなくなるぞ」という強迫観念もまた自作の想定と捉え直し、ただ何もせず、非三次元的な世界を感じた。そうやってこれまでで一番の深度で非三次元を感じたこと、これが本当に貴重なことだと思っています。同時に、本当に大事なことって目に見えないし言葉にならないしなかなか他人に伝えられねーんだな、とも実感しています。こうして他人に伝えるという場を設けておきながらですが。

この大きな進歩はまだまだ初歩の初歩。やっとこさスタートラインに立ったというところのような気がします。継続して取り組んでいってまた現場からリポートします。

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