HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

もっと自由に旅をするんだ(マグライMaglaj)

まさかと思って事件現場に足を運んでみたけれど誰もいない。まだまだ後悔する気持ちが拭えない。

この日の夜、レストランスタッフのハルンから1/1に予定していた撮影が無くなったことを伝えられた。12月の初めからほぼ1ヶ月、ぼくはその日のために旅程を組んで旅してきた。

それなのにその予定が今日、なくなってしまった。そのイベントの撮影を求めていた当人が別のカメラマンを見つけたという。言葉でのコミュニケーションが細かく取れないことが大きな要因だったようだ。

時間を1ヶ月近く盗られたともとれる出来事だけど、とやかく文句を言っても仕方がないような感じがした。自分も1ヶ月前、この話を持ち出された時の判断を誤ったとうすうす思っていたのもある。

むしろこれは自分の旅の方針や在り方を考え直す良いきっかけになると思った。

人のために動くと自由は制限される。決められた時間、決められた場所にいなければならなくなるからだ。もちろんそれを果たすから得られる恩恵はある。

自由のために動いた結果不自由になり、不自由を選んだ結果自由になることもある。どの程度人のために動いた方が良いのか、その答えはどこまで行っても人それぞれということになってしまう。そう単純な結論はない。その時その時の自分でベストと思われる選択をするだけだと思う。

それを踏まえつつ、これまでの自分の旅を思うと、自分は人のために役立とうとしすぎたと思う。ギリシャでの結婚式の撮影のために3ヶ月近くバルカン半島に留まったし、ブログ更新のために2ヶ月近くギリシャに余計に滞在したから今もこうしてシェンゲンビザが復活するのを待ってノロノロ移動している。今回は1ヶ月先の結婚式の撮影を引き受けて旅先を制限した。もちろんその中で体験したことは自分の糧になっていると思う。でも、代わりに「もっと自由にどこまでも走りたい」という自分を抑えたと思う。一年以上前に出会ったベルギーのサイクリストが最近インスタグラムにアフリカ旅の写真をあげているのを見るたびに羨ましさを覚えてしまう。

自分の在り方に考えは及ぶ。

自分の中の深いところには「助けてもらってばかりで何も返せていないから少しでも誰かの役に立たなければならない、というかそれ以前に自分は何かを為せていないとちゃんとこの世の中で幸せに生きてはいけない」という意識がこびりついていて、それ故に自分の心の底からの求めを二の次にしているようなところがある。

「良いカメラを持っているのだから、写真が必要な人のために写真を撮ってあげて、それを見せてあげてこそわたしには価値があるのだ。」そんな不文律を自分に課している。

それをすごく実感した。それを思った時、もっと自分は解き放たれたいと思った。自分の価値を確かめるためとか、自分の生活の糧を確保するために誰かの役に立つことなんて放棄して良い。

旅の可能性を舐めちゃいけない。何かを手放せばその分、自分が想像もしていなかった何かと出会っていく。そうやって幸せに生き続けられる可能性がどこまでも広がっているご時世なんだ。

そのイメージを思い出して心躍った。

出来るだけ早く出発しようと思った。この後考えている旅程を進む自分を想像するとドキドキした。改めて自分の姿勢を整えた。

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