昨日ようやく分かった。ぼくが24日このレストランに戻るよう頼まれたのはこの日、とあるお客さんの結婚披露宴パーティー写真を撮って欲しかったから、ということだそうだ。
久々のガチ撮影。カメラ2台とレンズ4種を用意。
とにかくまぁーぼくはこの中じゃ特別怪しい存在である上にそんな怪しい存在がカメラを向けるわけだから、とにかく安全無害な人間であることを目が合うたびにニヤニヤ笑ってわかってもらえるように努めた。笑
祝いの席で皆気持ちがオープンだったから、何人かの人と英語で話してすこし打ち解けたし、「お前も遠慮せず飲んで食べれ」と言ってもらった(ムスリムの慣習によりお酒は一切なし)。懐かしい。日本で撮影していた頃もあったこの感じ。
女性たちが手を繋いで輪になって音楽に合わせて踊る感じはギリシャで見たものと似ていた。ただ音楽の雰囲気はちょっと違う。多分このバルカンとトルコのあたりはもともと一つの帝国だったので表面的には結構似ているのだと思う。
写真撮影はすごく神経を使った。この場で今なにが起こっているのかを目に見えないレベルまで見ようとすること、一人ひとりの表情の良いタイミングや祝いの雰囲気を邪魔しないように気をつけながらも良い写真のために大胆な動きを恐れない立ち振る舞い、そして絵柄としての美しさ、終わった後の画像編集。良い写真をつくるために使う神経をフルに働かせたからこそ、改めて思うのは、良い写真をつくるためにはそれ相応のエネルギーを注がなければならないということ。普段自分が自転車を漕ぎながら現地の人たちに揉まれながらメモするように撮っているような写真ではなかなか納得できる写真にならない、慌ただしい中でちゃんと写真のための神経を使えるよう心身運び方を覚えたいと思った。
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嫌な予感はしていたけどついに一日中、昨日お金を貸した男からの連絡はなかった。自分の記憶違いなのか言葉の理解が不十分なことによるすれ違いなのか、とにかく適当に「イエスイエス」と言ってサムズアップしていたあの男の顔が浮かんですごく腹が立ってくる。相手を信用し好ぎて相手の連絡先を取得しなかったことが痛すぎる。自分のことを責めた。
お金は、たとえ手元からなくなってしまっても生き抜くための術があるイメージはある。それはこの2年間で少しずつ解ってきた。
でも、自分のお金はこんな自分を心から応援してくれる人が無償で差し出してくれたものだ。それを何も知らない適当な人間に流して良いはずがないと思う。そんなことは許されないと思う。それなのに自分は貸し出してしまった。その自分の軽率さが憎い。守銭奴のようだけど、お金を差し出してくれた人に、そのお金はちゃんと旅に役立てたということを報告したい。だから出来ることはする。