今日をここネミラの滞在の最後の日とするつもりで一日中カフェにこもってパソコンに向かった。作業中、カフェのスタッフの人とか、やってきたお客さんとかにサンドイッチやコーヒーやケーキをご馳走してもらい、仕事上がりのバシルやサイードさんにもまた飲み物やケーキをいただいた。もう至れり尽くせり。この1週間もうずっとそんな感じ。本当に、なんて旅人に優しい人たちなんだろう。
・
毎月末に過去の旅の写真をアップしています。このブログにアップロードできる写真の容量には毎月300MBの制限があるから、いっぺんに全部というわけにはいかなくて、日々の日記をアップして、なお余った容量を使って過去の旅の写真をアップしています。その日ごとの文章は全然書けていないけど。最低限いつ、どこに行ったかくらいはわかるように、まずはするつもりで。
この日はカンボジアの旅の記事をいくつかアップ。
アップするために写真を改めて見たらこれがもう、ね、すごく嬉しくなりました。撮る時はいつもこんなへなちょこな写真になんの価値があるんだろうと自問しちゃう癖が今もずっとある。この時も絶対そうだった。それでも今眺めるとその時の匂いとか音が再生されるような心地がして、あ、なんだ、これが価値じゃん、と腑におちて嬉しくなった。
写真そのものはやっぱり全然上手くねえだろなって思うよ。流れ作業みたいに撮った街の写真とか、走りながら撮った道路の牛とか、焦って設定うまくできなくてブレちゃった写真とか。まあほとんどの写真はおよそ写真家さんがやってる丁寧に撮るためのステップは踏んでいない(それゆえぼくは自分のことを写真家だと思っていない)。でも、それでも「よくぞ残ってくれていた」という気持ちになった。
どんなしょぼい写真だろうがそれは自分がその国に自分の足で行ったという証明になっていて、四角の平面の中に写っていないものも含めてその場所を思い出す嬉しさをすごく実感した。
なんかのコンテストに入賞できるようなものとか値段をつけて売れるような写真なんてないと思うけど、この、ごく個人的な嬉しさのために頑張ることが我が人生となるのもまた良し、と少しように思えるようになったかもしれない。
・
〜写真〜
差し入れてもらったサンドイッチとコーラ。
仕事から帰ってきたバシルは店に入るとみんなと握手を交わす。
今日もボスニアコーヒー。奥にバシル。
距離感が近くて微笑ましく思う。
晩御飯もいただいた。「Maslenica crna」というパイ、そして牛肉。味付けがなんかこう、濃い味のチーズソースがかかっていてそれと肉とのコンビネーションがもうたまらなく美味しくてめちゃくちゃ変な顔をしながらサムズアップをした。
作ってくれた店のお姉さん。このカフェはイスラームなのでお酒は出さないのだ。
サイードさんがやってきてまたケーキとコーヒーをご馳走いただいた。
サイードさんが一緒に車で家族の住んでいる村を見せてくれると言って外へ。夜のドライブ出発。
山の上は雪が強い。
この家は1940年代のもので作りが違うそうだ。
石が主流なのに対してこれは木と土。
すごい雪
他にも古いお墓を見せてくれたり、モロッコからボスニアにやってきたムスリムが一年で寒すぎるのを実感して帰りたくなっただとか、この辺りで大きな土砂崩れがあってそれはもう修復するのが大変だったこととか、村の雰囲気は良いけれどとにかく道路がちゃんと整備できていなくて大変だとか、雪道は三菱よりもフィアットよりもドイツの車よりもスバルの車が低コストで一番馬力があるだとか、いろいろ繰り出される話に相槌を打っていた。
一通り見学した後はレストランでまたご馳走になった。
名前はわからなかったけど全部美味しい、肉は仔牛の肉だそうで、柔らかかった😃
こちらは「トゥファヒエ(Tufahije)」というこの国のデザート。
中にはチョコクリームのようなものが入っていた。ウィキペディアを調べるとクルミが入っているらしい。とにかく甘い。ここのトゥファヒエは上にくるみをかけるスタイルということかなあ。
ボスニアのムスリムであるサイードさんは「今日のムスリムは怠けすぎだ」という話をしていた。祈って眠って日々を終える。勤勉さも労働も全然足りない。自分が旅したトルコのムスリムはとても良いムスリムなのだそうだけど、中東地域、イラクやクウェートではそういうことが起こっているという話だった。
「ムハンマドは勤勉であるべきだともちゃんと述べている。そもそも神が天使にアダムを祝福するように言われたのはアダムが知識でできているからであると、これが揺らいで天使は知識あるものを祝福するようになっている」という旨のことだった。知識というのは今日の自然科学もろもろのことだという。
サイード氏は母国語の他にアラブ語、ドイツ語はいっぱい話せて、英語も結構いけるし、学校の先生だけでなくメカニックの仕事もできるし、さらには目の前に現れた日本人に日本語のシステムについても積極的にぼくに尋ねてきた。それはそういうことなのか、なるほどなあと一人納得していた。