HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

写真展当日、ギリシャからオンライン在廊(Makrochori Μακροχώρι)

朝5時(日本時間11時)から写真展のオンライン在廊が始まった。

40点の大小さまざまにプリントされた写真が並んだ展示会場を見せてもらって、この展示のための苦労がよく伝わってきた。自分からすれば写真を選んでプリントして飾るというだけでも死ぬほどめんどくさいのに、展示となればさらに工夫を凝らして魅力的に写真を配置するという普段全く意識しない分野で頑張らなければならない。想像するだけで戦慄を覚えるくらいの労力を感じた。

会場の様子をカメラ越しに見ていて、いろいろな人が画面越しに見えた。話さなかった人もいたし、久々に話した人もいた。告知にたくさん時間を費やしたけど、自分の写真展という実感は薄いので、気楽にその場で構えていきた。

画面越しに何人かの人と話をした。大体の人に対しては気の利いたことも言えず、ただ挨拶して、微妙な沈黙が流れあちらの方から気を遣われて「変わる?」とか言われて話が終わった。

何人かの人は近況を話してくれて、自分が感じたことを伝えて、それが面白いなあと思った。旅して日々他人とコミュニケーションするけど、自分の日本語以外の言語力は低すぎて、気持ちをゆっくり眺めるような会話ができない。今滞在している友人とですらそんなにしっかりとした会話はできない(言葉が通じなくても仲良くなれるっていう良さを味わうことはできるけど)。だから余計に面白く感じた。

話をすること、話をきくことは生きる糧となる。これは日頃から思っているけど、この時、それを強く思い出して、これからもこんな風にオンラインで人と話をする時間を作ってみようかなと思った。

旅する自分だから他人に提供できるものをいつも模索してるけど、そのレパートリーに旅先から今回みたいに一対一で話す時間を作るというのはアリかもしれない。これが写真展在廊の時間で印象的な体験だった。

写真展が終わった。とにかく今年も彼に呼ばれたなあと言うかんじだ。

写真展の開催については自分は本当に関心がなく、友人がやるから後から協力するという形で参加した。それでも自然と時間をかけて力を込めて告知のメッセージと動画を作った。確かにそれは自分で選んでやったのだけど、亡くなった友人に引っ張られてそうなったと言われても全然納得できる。生前毎年「おれの誕生日会をやるからお前も来い」と言ってきたのが、今年は史上最大の力で呼び寄せられた。そう捉えて納得できるような現象だった。

彼は確かにたくさん自分を助けてくれたし、こうして旅をするきっかけになるくらい自分の人生を大きく変えた人だけど、ダメなところもたくさんあった人だった。でも、いくらダメなところを踏まえても、信頼できる人だった。

それは彼の持つ純粋さが美しかったから。なんの損得勘定もなく、ただ自分が楽しいから言いたいことを好きなように言う。自分が楽しいからお節介する。自分には到底真似できないその部分を尊く感じていた。

彼が逝ってしまって悲しいか。

いや、そんな感じはしない。

個人的な死生観的にこの世で生き続けることと、別の世界に旅立つことに良いも悪いもない。ぶっちゃけぼくはこの世界で生きる気苦労が多いし、死んだ後の方が楽しい予感がものすごくする。死ぬという作業そのものが痛くて大変そうだから自分から進んで死のうとは思わないけど、仮にこのあと突然、神様かなにかが「はい、終了でーす」とぼくの人生に幕を下ろしたとしても残念さはほとんど感じない気がする。

他人にとっての死を思えば、きっと本人もしくはその周りの人の心に無念を残すケースもたくさんあって、そういうことはできるだけなくなった方が良いだろうと思うけど、どんな風に死ぬかってことも結局のところ運に左右されるようなところが多分にある。それを「良し」とか「悪し」とか「客観的」に物言いをすることは究極的に無意味だと思う。

そんなこんなで、生きてたって、死んだって良い。自分にとっての生き死にの重さってそんな感じだ。

彼にこの世界で会えなくて寂しいという気持ちもないってわけではないけど、会うということは必ずしも三次元的に同じ時空間を共有することだけだとは限らない。なんならチャネリングとかで会えるかもしれない。そうでなくても時間が経って自分がこの世界を去った後に普通に会いそうな気がする。ひょっとすると彼がこの世界になんらかの形(人間とか動物とか自然物とかなんでもアリ)になって現れるのかもしれないし、本人も「オレとお前は離れててもつながっているから大丈夫、イエーイ」とか言ってたし、まあぶっちゃけ大丈夫。

一番重要そうな、亡くなった本人の想いというのを想像しても「あれ、異世界飛んできちゃった?あははははー!」という感じで笑ってエンジョイしてることとか、きっとその世界はこの世界よりもずっと彼にフィットした素晴らしいところだってこととか、そこに妙に確信持てるから、存在するかもわからない「彼自身の無念」を思っても「え、何悲しんでるの?ウケるwww」とか言われそうなくらい。

そんなこんなでまあ、今回の写真展で彼とのことに一区切りつけた自分はまた歩き出すだけ

なんだけど。

日が落ちてきた頃に、寂しさの風は吹いた。

もう今までのやり方で彼と話すことはできない。

やっぱりそこに意識を向けるとどんどん悲しくはなる。

それでも

彼が言いそうなことはすぐに思い浮かぶ。

「自分を生きろ」

きっとそう言う。

もはや昨今、常識となりかけてるこの単純なメッセージ。

それを彼は最も純粋に、強く、伝わるように放ち続けてくれたから、ぼくの中で形をなしてはっきり残っている。

大袈裟すぎて本人にも笑われそうだけど、ぼくは彼からその魂を託されたと思っている。これをどこまでも持っていこうと思う。

ぼくに「走れ」と言った彼は、生前ぼくが走ると喜んだ。

電話してきて、「今日は何した?」って尋ねてきた。「走ったよ」と言ったら「イエーイ」とかすごいテンションで喜んでた。本当にお金も仕事もなくて旅がうまくいくか不安だとか、そんなことばかり気にしていたけど、彼はそんな心配事を一蹴、「走ったって事実が大事じゃない?」って言ってた。

なんのことかよくわからなかったけど、今はわかる。きっと彼は、お金とか仕事とか未来のこととか、そんな小手先のことじゃなくて、ただ目の前にある命の形を見ていたんだろう。その命の表情だけを見ていたんだろう。生きるとは、目に見えるものではない。瞬間瞬間の、命の表情の積み重ね、そういうことなんだろう。それを今ならぼくも自分なりに感じられる。ぼくはまだまだ走る。

今は、Googleマップ上で日々、泊まったところに印をつけている。これを、もっともっとたくさん増やすんだ。できるだけたくさん。そして、いつか再会した時にその地図を見せて「あんたのせいで最幸の人生になっちゃったよ」って悪態をつく。そんな絵が浮かんでいる。

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写真展の特設サイトがあります。

こちらに告知やぼくのコメント動画やオンラインギャラリーがあります。

オンライン在廊もこれまでの引きこもっての作業も全部、この家に滞在させてもらっているから快適にできたというもの。ここがなければまず場所を探すところから頑張らなければならなかった。

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お昼ご飯はパスティチオ。これは自分の一番お気に入りのギリシャ料理です。

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マリアさんが何やら作っている。

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出来上がったのは「フォリャ」と言う焼き菓子。

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夕飯にまたパスティチオ😊

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