朝は教会のお祈りに出席して、その後は動画編集を引き続き一日中取り組んだ。
完成に近づくにつれて改めて思うけど、やっぱり話している内容が薄いし、退屈な時間の割に尺が長いし、動画で喋る良さが削げてしまっているような、考えすぎて力んでしまったせいで結局出来上がりがうまくできなかったような気がしてひどく落ち込んだ。1週間も産みの苦しみを続けてこの体たらく。
「軽くて笑顔で大丈夫。お前自身が気にすることなんて神様がなんとかしてくれるんだから。ハートとちんちんだ。頭はいらない。思い煩うこともいらない。」
現状の自分、彼から5年間くらいずーっと言われてきたこと、その乖離を思って余計に落ち込んだ。特にここ1年は旅する生活になって、自分の在り方はめちゃくちゃ好転したと自信を持っていたけど、今の自分はまた悪癖を繰り返している。彼のための場なのに、我欲に飲まれてこうなったことにもまた落ち込んだ。もしかしてオレ、とてつもなくみっともない?
だめだ、抜け出せない。もう明後日が写真展だというのに。
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8/15のギリシャでは「聖母被昇天祭」という年に一度の祝日。教会では朝のお祈りの後も何やら祭事のようなものをやっていたし、我が家では親戚がたくさん集まって、いつもよりも賑やかなご馳走を囲んだ。
この日を含めた4〜5日間くらいお休みになる店も多い。去年はそんな時に自転車が壊れて駆け込んだ自転車屋が休業中で大変な思いをしたこともある。趣旨は違えどタイミングや期間的に日本のお盆休みっぽいなあと思ってしまう。
キリスト教徒はバプテスマ(洗礼)を受けて、昔の伝道者とか修道士とかの名前をつけることが多い。アントニスはアントニオスで修道士生活を始めた偉い人だし、エヴァはエヴァンゲリオン、福音。で、それぞれの名前には対応する記念日があって、その日にその名前を持つ人をお祝いする。
この日は「マリア」さんのお祝いの日。というわけで家族親戚集まったというわけだ。
このあたりで出会う人はみんなキリスト教関連の何かしらで聴いたことのある名前の人が多い。
自分はその名前に対して「いくら聖なる偉い人とはいえ、他人と同じ名前をつけるのはなんだかなあ」という変な感じを覚えていたんだけど、「今よりずっと死ぬ確率も高かった昔の人は子供が元気に生まれて育つように、聖人の加護をいただくために彼の名前を子供につけていた」というマリアさんの話を聴いて、この名前もまた、命を大切に思う祈りの証なんだなあと思うと身近に感じられるようになった。
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朝は教会にお祈りに参加した。
お昼をみんなで囲むためのバーベキューを準備するアントニス。
これはギリシャ定番フードのザジキ。ヨーグルトと野菜が混ざってる。魚、肉、パン、野菜何にでもつけて食べられる。