昨日の訃報から何となくぼんやりとしていて、この日も一日あまり目に見えて何も進んでいない。そういう時の自分は内心でちまちま何かしらの考えを建設していて、この日が終わる頃にはぼんやりとある決意をしていた。決意の中身はいずれ発表するのかもしれないししないのかもしれません。まだぼんやりとしているし。
エクレムアービーに頼んで読書会を開いてもらった。
テーマは「人生で直面する困難」について。
神様が素晴らしい万物を創造したと、だから神様の存在を信じ敬えと。
オーケー、でも、でもですよ?
生きてれば理不尽に辛いことが無限にあるじゃありませんかと。
戦争、貧困、障害、病気、けが、災害、犯罪被害、いじめ、学校のテスト、ムカつくあいつ、自分の感覚が周りと合わせられない、血の繋がった家族が憎い、、、etc、etc、etc(例の数乏しいですが辛けりゃ何でも当てはめるイメージ。)
何?神様ドエス?
その渦中にいれば敬うどころかむしろ神様恨みたくなるわけで
そこんとこどないやねん。という問いに対し
人生とはいかに信仰心を持っていられるかという「テストの場」なんだと。
そして辛いことは全てがチャンスなんだと。
辛い目にあってもなお、信仰する心を持っていれば、
死後の世界で辛い目に合わなかった人々以上に豊かな暮らしが待っているとのこと。
例えば身体に障害があったけれど信仰心を持ち続けていたので、
死後の世界では障害のなかった人よりもずっと高い身体能力を持って生きられるんだとか。
細かいところはいろいろありそうだけれど、ぼくの大雑把な理解ではそんな感じだった。
エクレムアービーは「ムスリムの考え方を持つことで私たちはこの世での人生をとてもリラックスした視点から捉えることができるんだよ。」と実利的な側面からも説明してくれた。
話を聴いて納得できるのだけど
自分は微妙に違うことがむくむく湧き上がってきてそっちをぼんやり考えていた。
死んだ後のことが話題に登るといつもそうなのだけど
生きてて執着すべきものなんか何もないなあと思えてくる。
物質も、家族も恋人もあらゆる人間関係も、名誉も、功績も、言語化できないくらい自分に染み込んでいる正義とか道徳とかも、愛も、そして命も。
形あるものであれ、ただの概念であれ、コンプリートしてても、してなくても、どっちでも良いじゃんね。ビュッフェみたいに好きなものを好きなだけ皿に乗っけて食べてみて、幸せを感じられるまで調節すれば良いじゃんね。なんなら調節の末、幸せなんてよくわかんないものにたどり着けなくても良いじゃんね。と思える。
スタートもゴールもそこへの行き方も判定も全部自分が創れるし創らなくてもいい。そんくらい無限に自由。とりあえず生きる。
ムスリムの宗教観における死後の世界の話と合わせて、自分なりのリラックスを感じていた。
夕方から友人に招待されて夕食をご一緒する。トルコの家庭料理、チーキョフテです。
このお味噌みたいなものはブルグルという穀物がベースで、肉ではないです。
白い皮にいろいろ載せて巻いて食べます。美味しい😊
何気にチョルバ(写真手前の方にあるスープ)とピタパンが合う😆
ごちそうさまでした😊
食後は談話室でお茶。普段のメドレセってこんな感じじゃない?という風景が撮れた気がします。
「年上の人間を敬うべし」という教えがムスリムにもあるらしいけれど、自分のイメージとは全然違う気がする。「敬う」って体育会的縦社会な感じだけれど、こっちはファミリーになる感じ。社会によって異なる敬い方を感じた気がした。
野良猫もウェルカム。動物フレンドリーなトルコ文化。
彼女も野良猫だそうだけれど自由に家の中を歩き回って可愛がられている。毛並みも綺麗。
友人たちとお別れ、家に帰る前にこの辺りで一番大きなモスクへ礼拝に。
14世紀の状態のままのモスクの扉。
帰り道、このドレスはアルバニア人の結婚式できる伝統的なドレスだそうだ。金金だぁ。