HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

「頑張ること」の茶番性(Grassholme→Northallerton)

「私は表現者としてもっと質の高いものを生み出さなければならない。自分よりも大変な思いをして生きている人はごまんといらっしゃる中、五体満足で他者から無条件に応援してもらってまでいるぼくは何としてもそれに報いなければならない。でも実際なかなかできてないなあ。自分にもっと実力があればなあ。写真も文章もいろんな知識ももっともっとたくさんあればなあ。」

要するに

「自分にはいつも何かが不足していて、それを補う努力をしなければならない」という類の考え方。私にはこういう思考がデフォルトで流れています。旅を始めるよりもっと前はもう信仰と言っても良いくらい周りが見えないレベルでどっぷり浸かっていました。

でもまあ色々「そうやっているといずれ自分のことも他人のことも害することになる」と察したのでこの旅を始める前から辞めるようにように取り組んできました。

今はある程度客観的に見ることができるようになったけど、まだまだ気がつくとこういう世界観の中に没入している瞬間がたくさんあります。SNSの友達の発信なんかを見て「自分は全然できてない」とか思ったり、不人気なブログの弾き出す数字で落ち込んだりうんぬん。こういうのはとても勿体無いとわかっていてもついやってしまう。タバコみたいなものでしょうか(自分は吸ったことないからわからないけど)。

こんな時「どっちでも良いんだよ」という人の発信に触れると本当に楽になります。この日はそういう文章に触れてとても楽になりました。

「どっちでも良い」すなわち、視点を引くということ。ズームアウトしてより広い範囲を眺められるようになること。

人生の時間の使い方として、不足を補う努力に持てるエネルギーの全てを費やすのも良いし、不足したままでも良いし、不足を逆手にとって活かす展開が待っているかもしれない、不足はむしろ充足だったと認識そのものがひっくり返るかもしれない。自分の想像で思いつく諸々のシミュレーションの範囲の外の展開も含めて、何を選んだって良いも悪いもない。あるのは良いか悪いかを決めている自分だけ。

わたしはそもそも不足なんかしていない。何も補う必要もない。努力もする必要がない。という世界線を生きても良い。

そんなことを言うと他者からの共感や人気を失お金ももらえなくなりそうで心配になるけど、そこを心配する時点で純粋に自分を生きることはできていないと感じられるし、そうなるかどうか確かめた訳でもないではないか。

他者とのつながりに対する不安は自作自演の範囲を出ていない。

それに頑張っているように見せることで他人からただ好かれようとしているだけなのだ。と言う茶番性も浮き彫りになってくるのでなおさら頑張ることそのものがばかばかしくなってきます。頑張るんじゃなくてただ在るだけという良い選択もあるんだよ。

もっと無制限の自由の土台から自分の行動、在り方を選択しようと思うのでした。

・・・・

泊まらせていただいたフィオナさんのご自宅

亡くなった愛犬の絵、ご友人の方に描いてもらったそうだ。

朝食をいただいた。

今の愛犬。

フィオナさんと息子さんは朝早く出て行ってしまうので、家族のみんなの写真を撮らせていただいた。

昼過ぎまで自宅で作業をさせてもらった。パソコンカバーに差し込んだ虹彩

・・・

出発。あたたかくて走りやすい天気が続きます。

リッチモンド州に入った。

リッチモンドの町を遠目に眺めながら走り過ぎる。

この日は農家さんのお宅の庭にテントを張らせてもらえることになった。サンドイッチとレモンジュースもいただいた。