HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

強い刺激と洗脳(Glasgow)

昨日までの二泊三日間のキャンプの中でカロリスはぼくの自転車の改善ポイントを把握。彼の手が空いた時に手を加えてくれると言うことなので、bike for goodに自転車を預けた。

グレッグのお宅で1日作業して、家の掃除も少しだけ手伝った。

明日はグレッグの奥さんと子供たちが帰ってくるので移動する必要がある。

近所にあるカロリスの家に泊まらせてもらえないか相談し、OKしてもらった。

グラスゴーではこの同い年くらいのリトアニアの青年カロリスにおんぶに抱っこである。ありがたい。

強い刺激がなくても楽しめるようになりたい。

主には食べ物、下心としての性欲、小中学校の頃にどっぷり浸かっていたアニメとかゲーム、全てが強い刺激。もちろんこれは自分のことだから内容は全然人によって違う。

たいていの人にとって欲求は普通にある。でも欲求の捉え方にはコツがあるのだろう。

あまりよろしくない捉え方をしていると薬物みたいに「これがないと楽しめない」と無意識に錯覚してしまう。

強い刺激なので、浸っている時とそうでない時に感覚に生まれてくる明滅の差が激しく、気持ちのアップダウンや躁鬱につながっていくように思われる。

すると日々の動作の設計はこの明滅の明を求め、滅を忌避するようなものになる。

瞑想や坐禅のような活動はこうした強い刺激、激しい明滅を、波立つ水面が静まるのを待つように穏やかにしていく作用があって、強い刺激のない状態でも心地よく生きていられる感覚を思い出せるもの。

一つの洗脳と言っても良いと思う。強い刺激を求めるのが生物としての本能だとするのも、強い刺激を求めないことが心身の健康につながるとするのも、ただあるがままにしておくが最善とするも、全てが洗脳。洗脳じゃない状態なんてなく、つまりはみんなただそれぞれ違うコースを取り組んでいるだけども言える。自分はこの強い刺激を求めることを洗脳として、離れて俯瞰してみるステップを楽しもうとしている。

世の中を見渡すと強い刺激にお金がついて回っている。経済を回すために強い刺激を使っているとも取れる。

刺激を必要としなくなれば単純な極論、お金も物も必要なくなる。余った物質を他人に分け与えることもできるくらいの余裕が持てるようになる。

それは決して絵空言なんかではなく、自分のコントロール一つで到達しうるのだと思うと、人に認められたいなんて分かりやすい成功よりもずっと奥深い興味が湧いてくる。

ただ黙して座って過ごす時間の根拠にはそんな関心がある。

・・・

仕事の家事にガーデニングに忙しいグレッグだがちょっとだけヨガも瞑想もやる。

グレッグ宅での最後の夕食。明日帰ってくる奥さんと子供のためのキッシュだが、ぼくも一欠片食べさせていただいた。

 

明日、カロリスの家に移ると伝えるとグレッグはカロリスの大好物だというピーナッツクッキーを作ってくれた。