HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

力みを解いていく(ロRo→フェラーラFerrara→サン・マルティーノSan Martino)

もっと良い写真を撮らなければ魅力的にならない、もっと滞在国の歴史とか勉強しなければ有意義な発信にならない、もっと珍しい体験をシェアしなければ面白くならない。

そういう自分の中に湧いてくる義務感のようなものは手放す、ということにはこれまでずっと取り組んできた。が、自分の場合、それではちょっとピントがずれている感じがする。

向上心そのものは間違っていない。

肝心なのは笑えているかどうか。

でも今の自分は笑えていない。

これをどうやって笑いながらできるようにするか。

そこで自分が注目すべきは力の入れ加減なんだろうなとこの頃思う。

自分は力みまくる。

これはもう本当に人生の全てにおいて。身体の動かし方、仕事の取り組み方、旅の進め方、ご飯の食べ方、ものの考え方、エトセトラエトセトラ。もう本当に全部。我が人生は力みと共に歩んできたと言っても良いくらい。

なんかこう、魂に力んでしまうチップみたいなものを埋め込まれているみたいな、そういうレベルの根の深さ。なんか知らんけど物心ついた時には何に対しても力みまくっていた。すぐに緊張していた。

本を読む時とかめっちゃ顔を近づける。テレビゲームしてる時でも難しい局面とかになってくると肩にゴリゴリ力が入って終わったあと筋肉痛みたいになっていた。

学生時代野球を10年間くらいやっていた。運動の肝はいかに力を適切に出力できるか。力を「入れる」と「抜く」を適切に行えるかどうかがパフォーマンスを左右すると言っても良い。その土俵で四六時中力んでる自分は練習時間に比して全然上達できなかった。

目の使い方なんかも本当に顕著で、ずっと狭い範囲だけに集中するようなものの見方をするので、広い視野が要求される野球はじめとした球技ではもう本当にチームの足を引っ張ってばかりだった。どんなに指導をしても改善しないぼくに業を煮やしたコーチは医師から「集中過多」という症状の存在を教えられ、ぼくはそれに該当するのではないかという話にもなった。

力み、緊張、過集中。なんかもう、こうして文字を並べて眺めるだけで自分を見ているかのよう。

旅をする今でもその傾向を至るところで感じる。見知らぬ他人とコミュニケーションを取る時には自動的に緊張状態に入り、意識をしていないと胸部から上に力みが入り、胸部から下の感覚を忘れる。誰かにたまたま撮ってもらった写真とか動画とか見ると口角が不自然に力み歪んでいる瞬間がたくさんあるのがわかる。

魂の在り方が感情や思考に渡り神経や筋肉の使い方に影響を及ぼす。力みというものが全次元で一気通貫している。ぼくは自分の在り方に対してそんな実感を持っている。高校の頃にこのことを意識し始めてからずっと改善には取り組んでいるけれど、全然まだまだ。それでもあれこれ試し続け、こうして人目に着く場所に記述することもまたその一つ。

「力む」ということはリラックス状態の対極であり、その状態で浮かんでくる発想は冒頭のような固い質感になる。強さはあるが脆い。

今の自分のパフォーマンスの場の一つはこのブログになるわけだけど、毎日分更新なのに4時間も5時間もかけて一つの記事作成を試行錯誤し、その中で写真や文や旅そのものの質の低さ(当社基準)にのみ焦点を当てて落ち込み、「理想」から遥か遠い「現実」を前に自己効力感が消耗し、手足が停止。いつまでも完成が滞るなんてことに度々なっている。

撮るものや書くものがだめなんて本来は枝葉末節。そこをいじるよりも根本にアプローチする方がずっと大切だと思う。この魂内チップ「力み」をなんとかして柔らかくする。すると湧いてくる発想の質感は「あ、がんばろー」という感じの柔らかいものになり、欲求と身体の動きがシンクロしてきて「自己評価」も的確になる。またはそもそも必要無くなってきたりして、笑えてくる。きっとそうだと思う。

今必要なことは悩みの答えを出すことではない。土台を整えていくんだ。早く「自分は大丈夫だぞー」とか「この旅はやべえぞー」とか笑って示したい。が、それはいつになってもいい。今、目の前の一段を登る。

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この日ものどかな景色の中を進み「フェラーラFerrara」という街(世界遺産登録されている建造物があるそうです)を通りぎた。写真をほとんど撮っていない。いつも100〜200枚くらいは撮るけれど、この日は20枚程度しか撮っていない。

やることは「歩く」という自分の原型だけに絞る。意識では「力みを抜く」ことだけに注力する。度々違うことを考えてしまうけれど気がついたらすぐにまた「力を抜く」に戻す。

夕方辿り着いたコンパクトなサイズの町のバーでフレンドリーなマスターと出会い、ちょいちょい旅の話をしながらゆっくり作業をさせてもらった。「こんなところに旅人が来るなんてなかなかないよ」と面白がってくれていた。こういうなんでもないところで誰かの記憶に残る感じは好きだ。どんなに薄いものであっても良い。「知らない」だったのが「会ったことがある」になる程度で良い。地球規模の挨拶回りで良い。そういうのが好きだ。

町の中の静かな公園の場所を教えてもらい、ドルチェをいただきホクホクした気持ちで安眠した。

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辿り着いたバー

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フレンドリーなオーナーさんはダビデさんと言った。

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分けてもらった「ドルチェ(菓子パン)」

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やっぱりイタリアからはファンシーになるなあ

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