HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

新婦の実家で前夜祭(Makrochori Μακροχώρι)

今日は前夜祭。全3日程の初日。新婦エヴァの家で親戚や友人が集まってパーティ。この日は新婦の実家に新郎の親戚一同(新郎と母親は自宅待機)がウェディングドレスを届けに行くという趣旨だった。その新郎ファミリーを新婦ファミリーがもてなすパーティ。

初めて見るエヴァの実家は童話とかに出てきそうな可愛らしい、素敵な場所だった。ずっ流れるギリシャの音楽、そこに合わせて踊る人。ジョージの花火が打ち上がったり、パイとかサルマとかスブラキといったご馳走ビュッフェ。広くて薔薇の花とかいろいろな花が咲いているガーデン。広い畑。とても気持ちの良い場所だった。

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出発前。お届けするウェディングドレス。エヴァ曰く「シンプルなデザイン」

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エヴァの実家

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音楽を大音量でかけてワイワイ踊りながら新郎ファミリー到着。

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エヴァファミリーがお出迎え。

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ドレスお渡し。

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朝のうちは明日からのパーティに向けて椅子出しの準備。

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今回のぼくの撮影方法は日本でカメラマンをやっていた時と違う。

日本ではカメラ2台を使い、両方のカメラの異なるレンズで臨機応変に写真を撮っていた。

今回の撮影ではそのうち片方を動画撮影に使った。

左手でしっかりカメラを持って動画を回し続ける。

動画を撮ってるカメラは目視せず感覚だけで画角を合わせる、ズームせず基本広角側のみで撮る、GoProのようなアクションカメラに近い撮れ具合になるイメージ。

そして右手のカメラだけで写真を撮る。

左手は動画、右手は写真。

これは本番直前に思いついた撮影方法で難しかった。

が、それでもこの方法を採用したのには理由がある。

撮影前にエヴァから「好きなように撮って構わないけれど要所ではビデオも撮って欲しい」と頼まれた。

「要所では」というのは挙式中とかケーキ入刀とかそういうピンポイントだけだったんだけど、この注文を受けて改めてビデオの需要の高さを感じた。

参列した人が後からその時間を振り返るために見る。新郎新婦の関係者だけどその場にいることができなかった人が見る。それを思った時、「実際にそこにないものを見る」ということにおける最適解は多くの人にとってビデオなのだと思う。

あと、ギリシャの結婚式、というかパーティ全般、音楽とダンスが軸にあるので、やっぱりそれを後から楽しむにはビデオが最適解なのだと思った。静止した美よりも動いて聴こえるものを好む、そんなイメージが沸いた。

でも自分が普段からやっていることは写真だし、このカメラの性能としても本領は写真(画質が本当に綺麗)だから、写真も撮る。動画はずっと回して、手ブレしたり失敗した部分は後から編集。というスタイル。

展示会のお礼の文章と、撮影行ってきます動画をアップ。言葉を頑張って紡いで、相変わらずダメな文章しか書けないという気が抜けないけれどやってよかった。自分の中に浮かぶ想いに自分なりに丁寧に言葉を当てはめる。この奥深さを改めて実感した。

いい文章を書く人は読んでる本が多いと思う。それに対して自分は本を全然読んだことがない。読んでる途中で眠くなってしまったり意味がわからなくなったりする。文字を処理するスペックが恐ろしく遅い。新しいマックと古いウィンドウズくらいの差があると思う。だから自分の書いているものは基本読み手の目にはかなり拙く映っていると思う。

お褒めの言葉っぽいものをいただいてもどこかしら「上手ではないが」みたいなニュアンスが含まれていたり、ちょっとフォローする部分が感じられたりして、純粋に尊敬されるような評価されたことはないと思う。あと、ブログ記事数はそれなりにあるけど一日のアクセス数は30件いけば良い方なので、その方面でも魅力的な文章は書けていないのだと思う気持ちはある。

それでも書くことをやって良いかもしれないという手応えをこの時、感じた。たとえ自分の力が草一本揺らすことも出来ぬほどの力量で、全ての努力が無駄に終わるととしても、それが生きるということでしかない。