HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

はたらかない(Algeciras)

今日は自分の誕生日ですが、だからといって特別なことをするでもなく、とある空き地にテントを張ってひとりで静かに過ごしています。

(追記)どのくらいアジトかと言う事がわかる動画

youtu.be

ここはスペインのアルジェシーラという町の近くです。

既に数日ほどここに滞在しているのですが人っ子一人やってこない。周りに見えるものは草木だけで付近の道路を走る車や通行人からは完全に死角になっているのでアジトと呼んでいます。ここなら荷物を置きっぱなしでどこかへ離れても大丈夫そうだ。

食べ物など必要なものがあれば数キロ離れたスーパーに自転車を走らせて調達。ついでに広い個室のトイレの水道で複数のボトルにアジトで飲むための水を汲む。1週間以上着続けた速乾性の高い衣類を備え付けの液体石鹸を使って手洗いで洗濯。それから顔を洗い、便座に座ってボトルに汲んだ水と液体石鹸で局部を洗う。全てをスムーズにこなして何食わぬ顔で去る。

ネットと電気を使って作業するときはマックに行く。電源の使える席を探して着席。ヨーロッパのマクドナルドは日本よりも断然緩い。快適な座席のすぐそばにどうぞ使ってくださいと言わんばかりに電源があることが多く。Wi-Fiは本当にフリーで悪くない速度の通信ができる。ここですごいのは何も注文せず座っていても店の人から何も言われない。店員さんは度々近くを通るけどスルー。日本じゃ必ず「何か注文してください」などと注意されるだろう、お金も払わずに場所を占有することがマナー違反であるという常識が浸透している。が、少なくともフランス、スペイン、ポルトガルじゃそんなの気にしない雰囲気だ(スイスとかドイツだと難しそう)。かくしてマックがいちばん快適な作業スペースになっています。

使えるものはなんでも使う。こういう感じ2年間ちょっとの旅暮らしでずいぶん慣れました。

ちょっとしたガジェット系アイテムを良いお値段で手に入れるためAmazonを使いました。Amazonなんてアフリカ大陸じゃ使えなさそう。その品物がアルジェシーラスの町のAmazonロッカー(住所がない旅人の強い味方)に届くのが明後日。それまでこのアジトに滞在します。

それからはいよいよアフリカ大陸入り。新章突入です。ドキドキします。その前の何もない、空白の時間を過ごすのにこのアジトは最適な場所です。

ぼくは、働かなくても良いと思ってます。働くことの定義は時代を経るにつれてその解釈が広がっていろんな人にフィットする働き方も増えてきた。働くことを食べるための義務と捉えるのも、生きがいとして捉えるのも、遊びのような感覚で取り組むのも、その他まあいろいろ、従来型で行くもよし、新型で行くもよし、選べるようになることは良いことだと思います。

で、自分はせっかくだから「もっと先に行こうぜ上を目指そうぜ」というワクワクなノリで「働くという感覚はもういらない」と掲げています。自分の中で。こうして落ち着いて文章を書いているとそういう大それたことが言える。

でも、実際この旅2年以上の間、働いていたなぁというのが正直な感想です。主にこのブログ更新を軸とした発信関連において。ぼくのなんらかの発信を見てくださる方々からの投げ銭でこの旅の旅費を賄うつもりでいたので、自然と「良い発信ができなければ生存できない」という思考でやってきた。

もう一つ、自分の中でウエイトを占めていたのが精神面。端的に言えば社会貢献による承認欲。

自分には「自分の長所や資源を社会に提供して、自分以外の誰かの役に立つということがより良い社会のために必要である」という前提の考え方があって、その「長所や資源」を自分に当て嵌めると健康な身体と充実した撮影機材とサバイバルを楽しめる冒険心だと思っている。自由気ままに世界を歩き回って得られた体験なり学びなり撮れた写真なりを社会に提供する。それで初めて一人前の人間としての役割を果たせたことになり、社会の人たちから受け入れられる。という捉え方でこのブログやSNS、時にYouTubeを活用してきた(後者2つはほとんど手をつけなくなりましたが)。

お金と承認。物質的な充足と精神的な充足。この両者を獲得して生存し続けるためには自分の仕事を果たさなければならない。発信の場で他人や社会に良いものを提供しなければならない。そういう圧を自分で自分にかけ続けていた。

ぼくの旅は人からはかなり気ままに見えるかもしれません。自分もそうあろうとし続けたし。でも実際の実感は「気まま」とはだいぶかけ離れた心持ちでやってきたと思う。

良い写真が撮れてなければバツだし、ネタになるような出来事がなければバツ、美しい景色を見れなければバツ、面白い考えが浮かんでこなければバツ。本来なんでも良いはずの旅に、生き方に、マルバツをつけていた。いつもマルを求め、何もない日なんてできるだけ無くさなければならない。

今日みたいにアジトでゆっくりなんて過ごし方をする気にはなかなかなれなかった。

9月にポルトガルの友人宅で溜まっていた記事を更新しようとした時、手を動かそうとしても心がまったくワクワクしなかった。その理由は簡単に言えば、どの写真も出来事も全てバツに見えてきて、人に伝えても面白くないだろう、むむむ、、と捉えたことだった。

そもそも旅、生き方そのものを本当に楽しんでいればバツをつけることなんて一瞬も有り得ず、仕事も仕事と思わないほど嬉々として取り組めていてやることなすこと全部にこにこワクワク萌え萌えであるはずだ。

そこで、今のやり方が自分の中でただの苦しい働き方になっていると結論づけて、全てを見直すことにした。ブログ更新はストップ、旅の中でも観光地をめぐったり変に出会いを探さない。旅を辞めないことは心の中で固まっているので、とりあえず最低限生きられるように生活を運営しつつ、ひたすら自分の心や感覚に焦点を当てて「どうしたいのだろう」と問いを立て続けた。

自分はそもそも働かなくても良い。善行、苦労、苦行もマストではなく、趣味。とにかく遊んでも働いても行動の内容はなんでも良い。とにかく四六時中心がにこにこワクワク萌え萌えで自分のオリジナルカラーの喜び生きて行く。そのつもりで旅を始めたのである。仕事に現抜かしてんじゃねえ、真剣に遊べ。笑

この期間は原点に立ち返るための時間。

いくつかスペインの観光名所らしいところも通ったけれどガン無視。パソコンも触らないから、ネットを介して見てくれている人からは失踪したとかなにか危険な目にあったとか思われて、良い写真も撮れないからお金は入らなくなりそうで自分の生活全てが瓦解するイメージが浮かんで、心配や申し訳なさや不安や怖さでソワソワする。けれど、それでも、そんなの関係ねえと振り切って落ち着くことに徹した(こう言う時に一言くらいお知らせ入れてもいいじゃんね、と、反省はしています)。

そもそも、社会の構成員として承認されなくたって、死んだってべつに良いんだから。いずれも悪いことでもなんでもない。ただ世の中では、国や家族に迷惑がかかるとか、関係者が悲しむとか、死んだら終わりとか、神さまとか宇宙の摂理だとかに背くだとか、そんな理由で悪いと思われていると、ぼくは捉えていて、自分もその世の中の人たちの機嫌を逆撫でしないように一緒になって遠ざけて怖がるようにしているだけだ。よくよく考えればその世の中で一般に思われているであろうことがぼくにとって重要なものとするかどうかを選ぶ権利をぼくは持っているはずで、自分は正直、どんな理由も虚構っぽいなあという感がものすごく強い。だからちゃんと背筋を伸ばして自分の考えを申し上げるなら「認められんでも死んでもええわ」となる。なにも自ら進んで死ぬことはない。死に【たい】わけではないし、シンプルに死はゴールではない気がするから。けど、自分が納得するための試行錯誤の過程で(やりたいことに取り組んだその結果)おっ死んじまう。それはそれでマル。

そこまで言い聞かせてただ落ち着いた。揺らぐ水面を沈めるべく、手で抑えつけるのではなく、ただひたすら待つが如し。

そして今日、こうして記事を更新した。これから発信をどうして行くかの見通しが具体的に立ったわけではない。ただ、今日なんだかやれそうな気がしただけだ。

今日までの働くことから離れた期間、自分の核が良い方向にシフトしたと感じている。無意識に背負っていた義務感や強迫感が降りてより軽く自由になったかんじ。

このシフトが他人の目から見ても明らかに伝わる成果となるのかわからないし、その前に伝わっても伝わらなくてもどちらでも良いのだけど、これは自分にとって貴重な収穫であるということをビリビリ感じる。イェーイ!

そんな感じでぼくは依然しぶとく元気でやっています。そしてまだまだずーっと、死ぬまで旅を続けるつもりでいます。

今日で34歳です。出会いを重ねる毎に自分の中でどうでも良くなっていくこの数字の概念。90歳を超えて高校に通い始める老人がいれば、長老の如き悟りの境地に立つ赤子もいて、その人にしか感じられない何かを感じで生きているだけなのでしょう。この世界の中で意識を持ち始めてからの時間と成長の度合いに相関が必要だとすれば、それはその人が自分でこしらえた幻想でしょう。世界も時間も成長もその人のこしらえた幻想でしょう。あれこれの概念一切合切、生きてるかどうかすら忘れてしまうくらい、自分の感じている感覚に萌え萌えで生きることだってできると思うぜ。やってみる。