HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

生まれてすらいない(Gretna)

「好きなだけ居て良いよ」というドギーさんの言葉に甘えてこの心地よくひとりきりになれる環境で、気が済むまで作業させていだくことにした。昨日眠らせてもらったキャラバンをそのまま作業場所として使わせていただくことにした。

完全個室に電源にWi-Fi、フリーコーヒー、ポテチ、コーラ、3食の時間になると持ってきていただける軽食。そして一日中放置していただける。普通の人が快適に過ごすには物足りないかもしれないけれど、ただ安定して作業する時間が欲しいだけのぼくにとっては完璧な環境だった。アジトと呼んで良い。

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イタリアで心の調子を崩してから自分のペースを保つことが大事だなぁと思っている。そのためによく瞑想っぽい時間をとるようになった。

たぶん自分は背負い込みやすいところがある。旅してない人にぼくの旅を楽しんでもらうために行った先々の土地について勉強せねばと思うし、送金してくれる人はただ「元気で生きててくれれば良い」と思ってくれているだけだろうど、なにかお返しになるようなことをしなきゃならん。自分は心も身体も偶然健康なのだから望まずして不健康を被ってる人の助けになることもしないといけない。良い歳した大人として子供の手本にならないといかんし、写真も文章ももっと良いものを届けるために勉強せなあかん。日本人として他国にお邪魔してるんだから日本国の名誉のため両国の友好関係のため、、

もちろん全部出来たら良いね。けれどもたいていそういう責任感めいた心のつぶやきがつもりつもって心の調子が崩れる。

だから、瞑想するときはこういう、背負い込んでることを全て降ろす。上記のような思念はもちろん、もっと常識として無意識に信じていることも全て降ろす。目に見えてるキャラバンの外の景色も、座っている椅子も、果ては自分の身体まで降ろす。言い方を変えると、ズームアウトしていく。見方を引いていく。退行する。と捉えています。

そして、今日はふとネットで拾ったアイデアから「生まれてすらいない」というところまで退行した。

「生きてる」というのも本質的には確証がない。心臓が動いてるとか、身体に温度があるとか、木の匂いを感じているとか、生きてることを裏付ける証拠ならたくさん在って、それを無条件に受け入れてるけど、「生きてる」とするのも、それらの「証拠」を「生きてる」ことの裏付けとするのも、最後に自分がそう結論づけてるから成り立ってる。逆に言えばそう結論づけないでいることだってできる。「生きてる」もまた概念。頭の中でやってる「生きてる」状態を維持するための戦略すらも自分のペースを妨げる。この、なにかと背負い込みがちな自分が何にも囚われず自分のペースを徹底的に取り戻すのに効きます。