お父さんのジムさんが日記を書いていた。一日一ページを使い、手書きの文字だけで記している。時々ページの右上に「TESCO(イギリスの大手スーパー)」とか書いてあってその日の活動もざっくり簡単にわかるようになっていたり。
きっと誰に見せるためのものでもないのだろう。ただジムさんの生活の一部として書き続けている感じだ。過去の分は既に10冊分くらい積み上がっていた。息子のジョンさんは「1000年後くらいに歴史家が発見して史料にするかもね!」と笑っていた。
ぼくはこの日記の中身を読んだわけでもない。ただ、この日記の存在が自分の中でこのブログと妙にリンクした。そしてすごく安心した。自分もこれを続けていこうと。
このブログに対する自己評価はとても低い。読者はとにかく読みにくいだろうと思う。1日1本にしては文章のボリュームが多すぎるし、次の記事を見るためにいちいちジャンプしなければならない、SNSでスイスイ流れる時代にこれは古い。写真はたまに良い写真があっても、多すぎる普通の写真の中に埋もれ、写真本来の一つ一つじっくりと鑑賞するモチベーションを読者から奪っている気がする。ブログ全体の内容としても、淡々としすぎていたり、時々急に精神論が表れたり、テーマもまとまりもなく、ためになるような知識は散りばめられておらず、自分自身の心や魂の動きを示した表現も乏しい、ひたすら自分の行動記録と、見えた世界を拙い表現力で書き残していくだけで精一杯。それも不定期に。
読み手を大変に疲れさせ、何人もの人に愛想を尽かされてきたことだろうと思う。投げ銭云々以前に、誰のためにもならぬ産業廃棄物を延々と生産し続けているのではないか。そんなことに自分の人生の時間の使うというのは果たしていかがなものか。そういう悩みがずっと奥底に沈澱していた。
が、このジムさんの姿を見て、何か心身の奥底が反応するような気がした。
目の前の老人は誰のためでもなく本当にただやることをやっている。
自分の呼吸を続けている。
ぼくは生涯、そしてその後においても、この地球上の誰かのためになるようなものも、何かしら評価されるようなものも、一切の何も生み出すことはできないかもしれない。ただ歩いて産業廃棄物のような言葉と写真を残していくだけで、一切全てが誰にとっても地球にとっても無意味かもしれない。誰の心にも残らず霧散していくだけかもしれない。
それで良い。
いま、できることを、重ねていくだけ。
そんな風に前を向かせていただけたようで清々しかった。
あのジムさんのその佇まいがとても強く印象に残っている。
また、山を登り降りして、20時近くにたどり着いたB&Bの老夫婦がとても親切な方々だった。雨を心配してくれてキャンプではなく、敷地内にあるキャラバンの中に宿泊させてくれた。夕食にヌードルを作ってくれておやつとコーヒーもいただき、生活に必要な設備が全て揃ったキャラバンを自室として快適に過ごさせていただいた。
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家の中のいろいろに目が行く。
窓からの眺めがとても良い。。
朝食のシリアル
ジョンさんと近くの海岸まで散歩
いつも身体の中に音楽が流れているジョンさん。
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音楽一家だ
お父さんのジムさんはもともと電気工で大きな工場で電気製品の製造や修理をやっていた。その時に直していた古い時計が家の中にたくさん飾られていた。
出発前に用意していただいたお餞別。
食事をずっと用意してくださったドロシーさん、ありがとうございました!
とても印象深い温かみをありがとうございました。大変お世話になりました!
ちなみにこちらがマンチェスターから移住してくる前のお家。
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NC500という自転車道をずっと走っている。景色はとにかく良い。ただし雨と向かい風とアップダウンがあるので自走するのはちょっとタフです。何台ものレンタルキャラバンカーに追い越されていった。
泊まらせていただいたキャラバンのキッチンで自炊も行う
満腹でした。