HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

心身もまた「物」である(レッジョ・エミリアReggio Emilia)

自分は運動をしていなければ心身の調子を落とす。そういう認識でここ5年くらい生きてきたし、こうして自分の足で旅をする大きな理由の一つにもなっている。実際にやってみて「その通りだなあ」という実感もあって、だいたい3日以上同じ場所に留まっていたら元気がなくなり始める、というイメージがある。

しかし、だとすると2週間ずっと引きこもってブログを更新するか、ただ座って静かにしているだけの時間が続いている今の自分は確実に調子が落ちていることになる。ガスバーナーの受け取りとか、ラリメルームの商品撮影とか、目的がはっきりしているから、というのもあるだろうけど、実感としてはぜんぜん平気。いつでも運動していなければならないということでもないようだ。

自分のペースを思い出すためのアクションを通じて、調子を保つために、運動することよりも焦点を当てるべき肝となる部分があることを実感したように感じる。

 

自分の身体とか気分とか感情だとかも「物がある」か「物がない」かの「物」の範疇に入る。冒頭の認識は、今の視点からすると、心身という「物」があると想定、自分の神経だとか、脳だとか、筋肉だとか、血流だとか、気分だとか、調子だとかに「運動をしていなければ心身の調子を落とす」という法則を自作して、それに従うようにした結果である、ともとれるように思う。

この自分の心身すらも「物がない」捉え方に立つことができれば、自分で拵えた像ということになるわけだから健康だって自分の思いのままということになる。

移動する時はスポーツマン体質に変形させ、作業が立て込んでいる時は引きこもり体質になる、ということもできるのかもしれない。作業と瞑想続きの旅っぽくない日々が続いているけど、移動しなければならないわけでもないという緩みでより開けた自由を味わうのでした。

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本日はやたらと何かを差し出してくれる少年であった。

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