人の話を聞くとき、「普通では話しづらいようなこと」ほど心を傾けて聞いている自分がいる。それこそ、人の悪口だったり、なにかに対しての愚痴だったり。「そんなこと言うべきではない」と言われるようなことほど耳を傾けたくなる。
「みんな死ねばいい」と言えなかった
そんなことを思い出したのは、本人の名誉のために名前は伏せるのだが、知り合いのAさんがぼくに以前そうしてコミュニケーションされたことをありがたく思ってくれたことだった。現在ではとても親密な関係にあるAさんはぼくに当時書いた日記を見せながら語ってくれた。
ぼくはその日記を読みながら当時のことを思い出した。
当時、Aさんとぼくは出会って間もない頃で、深い話もあまりしたことのない間柄だった。Aさんには深いつながりの友人がいたが、その友人には話しづらいことを抱えていた。
当時Aさんはとても気分が落ち込んでいる時で、いろいろなことがうまくいっていないようであった。その時に友人とちょっとしたいざこざがあり、落ち込みはさらに悪化。ついには「みんな死んでしまえばいい」と思っている状況だった。
それでも、責任感の強いAさんは自分がそう思ってしまっていることを責め、なんとか人前で出さないようにしようと頑張っているようであった。
その話を聞いて嬉しかった
ぼくはそんなAさんが少しだけ元気のない様子を感じ取り「なにかあったの?」と問いかけた。「うん、ちょっとね」と暗めの反応をしたAさん。ぼくはますます気になり問いかけ続けるとAさんは「実は一人でいる時にみんな死んでしまえばいい」と思っていることを話してくれた。
ぼくはそう聞いた瞬間とても嬉しくなった。むしろ不謹慎と呼ばれるかと言わんばかりに突然顔を明るくして嬉々として話を聞いた。
Aさんはこの時とても驚いたのだそうだ。人に話してもいい影響なんてなにも与えない話。真剣に聞いてくれる人はいるかもしれないが、まさか喜んで聞く人がいることが意外だったのだそうだ。普段は申し訳なくてあまり話さないが、この時ばかりは、「喜ぶのなら」と話をたくさん打ち明けてくれた。
Aさんはこのことがきっかけで自分のの感情が好転したと聴かせてくれた。自分の黒い部分をみせてもいいのかもしれないと思えて楽になれたのだそうだ。
「悪」は心から愛したい
ぼくは世の中の「悪」とされていることの大概のことは「抹殺」しようとしても無くならないと思っている。
虐待する母親を責めるとか、無職の男を責めたりとか、失言をしたテレビのあの人を責めたりとか、犯罪者を憎んでバッシングしたりとか
それほど大きなことでなくても、ありがとうをいわないこととか、遅刻することとか、仕事をサボることだとか、人に迷惑をかけることとか、親に反抗することだとか
そんな広い意味での「悪」に対して人は様々な方法で「石」を投げつけ抹殺しようとする。それで治る悪はたしかにあるかもしれない。でも実は、本当にその「悪」を浄化するのに一番良い方法はその「悪」を愛することだと思っている。
「悪」は結局のところ一人の人間にたとえて良いと思う。人間である以上、欲しているのは愛情である。その愛情をもらえなかった悪はより暴走を拡大する。だがそれに愛情を注ぐことによって楽になれるのだ。
先の例で言えば、「みんな死んでしまえばいい」という明らかに「悪」の感情を、喜んで迎えたことで当人が拍子抜けをした。その悪の気持ちを持っていてもいいと許可を出したことによって暴走の拡大が収まったのだと思う。
何かを頭ごなしに消そうとするやり方では事態を解決することはもはや難しいのだと思っている。まずはじめに、「悪」をありのまま出せるような場作り環境づくりこそ、必要なのだと思う。もっと言うと、ぼくは「悪」がなくならなくても別にいいと思っているのだけれどそのあたりはまたの機会に。
おいでなさっていただきありがとうございます。
難しいけれどやっぱり結局は同じ「人」だって思っていたいんだよね、同じって。