HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

過去を引きずらない人を見て思ったこと

「いつまでも過去を引きずるもんじゃない」という言い方がよくある。でもそれに対して自分はとても懐疑的だ。引きずった時間は「無駄」なのではなくてむしろ他人を助けるための「力」であるとすら思っている。

そう思ったきっかけは先日、知人と話をしている時だった。その知人は自分の過去の話を僕に打ち明けてくれていた。小学校時代に友人からいじめを受けていたり、中学高校での部活動では頑張りに頑張ったが結果が実らなかったりと、聞いていてとても辛そうな出来事であるように感じられた。

しかし、一つ違和感があった。その知人の様子が妙に淡々としているのである。その時感じていた気持ちを聞いてみたりするのだが「辛かった」と言葉にするその顔がすっきりしているとはまた違う、妙に淡々とした様子なのだ。そこで、気になって当人に過去に対しての捉え方を聞いてみた。

「過ぎ去ったことは考えても無駄だからあまり考えずに先に行くことだけを考えている。」

たしかに、誰もがその通りだと頷きそうな話だ。むしろその言葉からは、逆境をものともしない知人の強さが感じ取られた。

しかし、同時にそれでいいのかと思う自分がいた。

実は、その知人は一つとても大きな苦しい体験をしたのだという。それは以前、他人の過去に関する深い話を聞いた時、その反応があまりにも淡白で「人の過去の話を聞いておいてその反応はなんだ!」と激怒されたのだそうだ。自分では気付かなかったことだったのでとても驚いたのだという。

ぼくはその話を聞いて、とても「腑に落ちた」と思った。自分にしていることをそのまま人にしたのだと思ったからだ。

ぼくの実感でしか話せないことなのだが、他者への「共感」というものはとってつけたようにできるものではない。共感するということは自分の気持ちにどれだけ共感したかがそのまま相手にできる共感の器の大きさなのだと思う。自分が感じた悲しかったこと嬉しかったことなど様々な感情をどれだけ感じ入ったかが相手にできる共感の深さに転化されるとぼくは思っている。

過去のことでうじうじするということは自分の過去を思い出し感情を感じているということだ。その深さの分だけ、他人の過去を思いやる気持ちの強さにもなりうる。じっくりと悲しんだり悔しがったり妬んだりすることは「良い経験になる」と言っても良いのではないだろうか。

「いつまでも過去を引きずっている」自分自身を残念に思っている人が散見される。たしかにそのまま引きずっているのは自分自身が心地よくないという意味ではなかなか喜ぶべきことではないかもしれない。でもその「引きずっている過去」が先々出会う人の糧にだってなれることを知っておいてもいいのではないかと思ってもいる。

おいでなさっていただきありがとうございます。

乗り越えるんじゃなくて引きずって歩いたっていいんだぜぇ〜

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