HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

主役としての写真よりオマケとしての写真

とある撮影。会社の求人広告の写真撮影の現場。働く人を撮影する機会だった。撮影は先方のアシスタントと一緒に行うことに。

 

この時スタンスの違いがはっきり出たことがある。

 
先方のアシスタントはしきりに「笑ってください」「ポーズをとってください」とたくさんの指示をモデルに送っていた。
 
世の中を見回したときの「撮影」というものの認識って基本そんな感じかなぁと思う。
 
完璧な場所で完璧な状態でいてもらい、それを撮影する。それは見事な写真が出来上がるのだろう。
 
見事な写真を「作り上げる」作業だ。
 
 
でも自分はやっぱり、「作りあげられたもの」を撮るのがそんなに好きではない。写真として完成された時、たしかにいいのだけど、そこには「作った匂い」漂うのだと思っている。
 
そうではない、「作っていない」写真に心惹かれる。
 
写真の中の色合いや美しさや構図。それらをより良くするために、あれこれいろいろと作る。
 
でも自分の中ではそういう、明らかに目に見えるものは写真を構成するたくさんの要素のうちの一部だと思っていて。
 
自分が求めるのは、その「外側」なのだ。つまり、「目に見えないこと」
 
たとえば人の写真を見たときに真っ先に思うことは「この写真は誰がどんな気持ちでシャッターをきったのだろうか」「被写体の人はどんな気持ちでいるのだろうか」
 
そんな、目に見えない部分も写真の要素。だからこそ、どんな風に撮影するのかには、ちょっとこだわりがある。
 
今回だったら、とにかくお仕事の現場に行ってみたかったとおもうのだ。そしてモデルの方とじっくり語り合う時間がほしい。そこには普段と変わらないほんとうの姿が写っているはずだから。
 
違う文化に触れて自分の輪郭がくっきりするような体験でした。
 
おいでなさってくれてありがとうございます。
 
生活の中に溶け込む写真。ということかもしれない。