※下書きをそのまま公開しています
やっぱりさ、自分含め大体の人がどんなことをするんでも「成長」ってしていきたいんだと思うんですよ。できないことができるようになるのはとても楽しいし、ひとの役に立つし、自分の生きやすさが増していくし。
「進む」ことはとっても楽しいわけです。ひとが過ごす時間は「静」と「動」の二種類というわけ方ができるけれども、生きていて手応えを感じることが多いのは「動」のほうだと思う。そしてそんなあなたを見ている他人から見ても「動」のほうが楽しいと思います。
ぼくは電車で赤ん坊と目があうと興味を引くためにいろんな変顔をしています。顔に「動」をつけて飽きないようにしているんです。もう、生まれた頃から「動」が楽しいようにできてるんですよねえ。赤ん坊なんか「静」のままでいるとすぐにそっぽむいちゃいます。「動」がないのはつまらないんですねえ。にんげんの自然な反応なんだろうなと思います。
そう、そうなんだけれど、そうなんだけれども。
そこで「静」を味わえなくなると、きっと片手落ちなんだろうなって以前にも増して思うようになった。例えばさ、カメラをやるんでもどんどん成長したいから「動」をもとめて練習するんです。それで終わった後に「今日の収穫はなんだったか」なんて振り返ってもう無理矢理にでも動かしてやろうと言わんばかりの勢いです。ただ、そう思ってばかりいると、「動」を発見できず「静」に終わるととても残念な気持ちになるんです。
で、あんまりそんなことが続くと、そのうちやるのもいやんなっちゃうんですよ。そうしてまた別のところに「動」を求めていく。
抽象的で申し訳ないんだけれども、とにかく自分は静を大切にできる人でいるべきだって思ったんだ。うごかないからといってそっぽを向くのではない、ただ、みつめる。それもまたせい
好まれやすいと思います。生きている以上は「成長」ってしたいわけじゃないですか。とかく何事でもがんがんと進めて行きたくなるもんです。ぼく
熱中するってのはすんごくいいものだと思ってた。勉強にせよ仕事にせよ恋愛にせよ、熱中しているってみんなとても歓迎するんだ。熱中できているひとはよりいっそう熱中しようとしている気がするし、熱中できていないひとはそういうものを探したくてしょうがない。ように見える。
ただ、熱中ってちょっと言葉を変えると、「ガツガツする」ってことだ。ガツガツって言葉になると、ちょっと遠ざかっていくよね。ガツガツって状態はとてもいいもんだと思ってた。状態になりたかったんだ。でもガツガツすると帰ってすすまなくなるんだ。
なんかね、ずっとガツガツしてると行き止まりになる時が必ず来るんだ。でもすごくガツガツしてるもんだから先に進みたくてしょうがない。それでも先に進まないからしょうがなく諦めて一休みする。すると突然あるときに進めるようになっていたりする。
気をつけなければならないのはここでやめてしまうのではなく、ずっと一緒にいるということだと思うのだ。別に進めなくてもいいのだが、それだけに意識を向ける時間を作る。これがちゃんと蓄積になってプロへの道になっていくのかもしれない。そう、数字にあわられない「0」にもとても深い意義があるんだよってこと、たくさんの意図がもっと理解しているべきなんじゃないかなあ。しばらく寝かしておかないとその先にが進めない。
ガツガツではないにしても隣にずっといる。それくらいの距離感がずっと続いていったものに対してのみ深い絆が生まれるのかもしれない。