罪悪感のお話の続き。結論から言えば、罪悪感ベースでいることが疲れてきたので、自分に許可を出し続けた。
気付けたきっかけは「嘘をついている」自分に気付けたことだ。
ぼくはそれほどたくさんという程ではないが、悩みを相談されることがあった。それらに対する基本的なスタンスは「どんなあり方でも悪いなんてことはない、自分がどう思うかだ」ということだ。悩んでいる人は大概自分の在り方に疑問をもっている。そこに対して「それでもいいのだ」と伝えてあとは聴く。
しかし、自分に対してはそれをやらない。小さなことでも失敗する度に自分を責め、平時でも自分に欠けているものをあげつらいやはり責めていた。これも罪悪感の仕業である。自分に厳しく他人に優しい、といえば聞こえは良い。しかしそれこそが落とし穴だった。
それこそが、嘘をついていることだった。他人に対して「なんでも良い」ということを伝えておきながら、自分に対しては、ダメ出しだらけ。それはつまり、他人に対しても内心に無意識にダメ出しをたくさんしておきながら、表面上は喜びそうな言葉を伝えている、つまり嘘をついているに他ならない、ということだった。
ここの論理はもっと上手く説明できると思うのだが、今の自分の言葉で説明できる当時の自分の感覚だ。
そこに気付いていたたまれなくなった自分が起こしたアクションは
「自分に許可を出す」
ということだった。
罪悪感ベースで動くことが身体に染み込んでいると、日常の様々な場面で自分本来の欲求に許可を出せなくなっている。
休みたい、遊びたい、帰りたい、怒りたい、泣きたい。それはもういろいろな場面での制限だ。ぼくはその一つ一つに「それでいいんだ」と言い聞かせた。
具体的には約束をドタキャンしたり、必要以上に食べたり、楽しむべき場でもつまらなければ帰ったり、相手が傷つくかもしれない自分の本音を惜しげなくぶつけたりした。
こうしたことをするのになれていないと、自分に何度も「それでいいんだ」と言い聞かせまくらないと実行できない。それでも続けていくと、わりとすんなりと出来るようになってくるのだ。
そんな小さな練習を一年二年と続け、積もり積もった結果、カメラマンをやるというところまでこぎつけた。これは自分がずいぶん前からやりたいと思っていたこと。そこに到達できたことがとても嬉しい。前よりも自然に笑えることが多くなった。
そしてもちろんまだまだ、「それでいいんだ」の練習中だ。
今の自分はこんなかんじである。
いろいろとまだまだわからない部分は多い昔話だが、はっきりとしていることは、前よりも自分、他人の両方に嘘のない自分でいられるようになってきている事が楽しくて仕方がない今だ。
これから自分を苦しめ育てた罪悪感とは少しずつお別れしていこうと思う。
昨日からのお話はここで一区切りになります。
おいでさなっていただきありがとうございます。
ありのままというのは楽そうで難しいんだと思うよ。