HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

罪悪感と生きたことについて

ちょっと真面目に昔話をしてみます。キャリア論なんてとてもいえない、単純なぼくのお話。進路を選ぶときの罪悪感のお話。

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あまり人に話していない事だが、実は高校の頃、自分は将来、NPOのスタッフになるしかないと心に決めていた。

きっかけは自分のいた高校だ。母校は平和教育が盛んで、修学旅行での長崎の被爆者体験談やネイティブの英語教師による紛争や貧困などの社会問題を学ぶ授業が用意されていた。自分は当時から(今も)ニュースなんてろくに見ないような高校生だったが、体験談のスピーカーや英語教師の語り口がとても胸に響いたのだった。

彼らの話から想像される困窮した人々の人生は自分の生きてきたそれなんかよりもはるかに壮絶で、全く生温く生きてきた自分を恥じた。「自分の幸せはもういい。これだけ苦しんでいる人がいるのだから、自分の幸せと引き換えにこの人達を救わねば。」とすら思った。「非営利」という言葉を「自分を犠牲にする」という意味で解釈し、そのかっこよさを感じていた。

全て、罪悪感である。

こうしてNPOスタッフを志す高校生が誕生した。これは自分の中のソーシャルと呼ばれている部分の原点だ。そこから、高校のうちにとあるNPOへのインターンに参加し、大学生になってからもボランティア活動に積極的に参加するようになる。

いま思えば、この時から既に、自分の実態の掴めない謎の苦しみは始まっていたのだと思う。

罪悪感がベースにあると、ボランティア活動を「しなければならないこと」として自分に課す。課されているものをやるとだんだんと疲弊してくる。疲弊すると活動に気持ちが乗らずパフォーマンスが落ちる。そんな自分を責める。

自分に課していることは無意識に他人にも向く。表面的にはいい人の顔をしながら内心では社会問題に意識を向けない人達を非難していたりもした。こんな風にあちこちに攻撃的になっている状態で健やかでいられるはずがない。この期間の自分は思い出してもほとんど暗い顔しかしていないはずだ。

小さな罪悪感の火があちこちに燃え移り、自分や他人に広がって大きな山火事になった。そんな印象をこの体験に持っている。

罪悪感が原因で苦しんだことを問題視したいのではない。僕の体験では罪悪感をベースに行動すればのそれ相応の苦しみが生まれた。それだけの話である。この罪悪感は自分を苦しめたが、守ってきててくれたものだとも思う。そのときの自分がもった感情を責める事や悔やむことに意味を感じない。

この罪悪感にいま、どんな向き合い方をしているのかは次の機会に。

おいでなさってくれてありがとうございます。

良いとか悪いとか、そんな話にも意味をあまり感じてなくて。

台風一過