ある時から「限界を超える」ということにあまり共感しなくなった。頑張りすぎる事がかえってものごとをおかしくするということが多々あるということを感じてきたからだ。
こうして文章を作っていて完成してから読み返したりすると、好きとはいえ結局文章が苦手な自分の文は伝わりづらい。だから何度も修正して修正して、途方もない時間をかけて完璧な文章を作ろうと躍起になる。でもそうして完成した文章は、なんだかおかしい。依然として分かりづらいし、読んでいてなんだか無難でつまらなくなっている。
写真を撮って現像するにしても、細かいところを見直して見直して「完璧な現像」を目指そうとすると、時間がかかってかかって、結局最初と変わらないくらいに戻っていることもある。
努力による改善はある地点で頭打ちして成果が改善されないのだ。
そんなことを最近経験して思う事は
「その時の自分ができることは上限がある」ということだ。
言葉にして書くと「なんだ、当たり前のこと」と自分でも呆れそうになる。でも、それを認めたくなくて、「もっと出来る」と意気込んで努力を重ねるのだ。
それをしているうちに、受け手から「無理をしている」と思われてしまうのだと思う。これは恋人とデートに行くときに、自分が普段しないようなおしゃれをしすぎると「無理している」と思われる現象に近いのではないだろうか。
本当に「もっとできる」ようになっている時というものは、もっとじっくりと時間をかけてやってくるものではないだろうか。植物が無理して成長を早めるなんてことがないように、人間本来のペースがあるはずだと思う。
「もっと出来る」考えたくなる原因にも目を向けてみた。
すると、ふと「ここで外したら終わりだ」という感覚が大きいのではないかと思えてきた。「ここで外したら終わりだ」と自分にプレッシャーをかけて追い込む人をよく見かける。
何事もそうやって自分を鼓舞することでたしかにパフォーマンスは上がるかもしれない。でも、様々な人の様子を見て思う事は
「終わり」なんてものはそうそうない、ということだ。
いままでいろいろな意味で「失敗」した人の話を聞かせてもらったり様子を見てきた。その人達を見ていると。失敗しようがそのあとすぐにやってくる機会でいくらでも挽回できている。
失敗の極端な話になると、家を無くすとか、破産するとか、大切な人を無くすとか、それはもういろいろある。もちろんそれらの痛みを軽んじることなんて到底出来ないが、言える事はそんな人達でも「人生が続いている」ということだ。そして「続いている」ということはやっぱりチャンスがある、ということでもある。
ちょっと大袈裟な例えになったが、小さなことでも同じ事で、失敗しようが「次」は必ずある。そう思える事で今に対する力が抜けて、結局良いパフォーマンスを生み出せる事は多々あるのではないだろうか。これが今の自分の実感だ。
鏡に映る自分に「今日死ぬとしたら…」と問いかけるのもいいけれど、「次はまだまだあるよ」と声をかけて力を抜いてやるのも、それに負けないくらい大切だと思うのだ。
その時の限界があって次があるなら、その「次」に託してみるのもいいのではないだろうか。
おいでなさって下さり、ありがとうございます。
今回の記事でぶちあたった「限界」も「次」に託そうと思っている。