「こころで感じること」というものの取り扱いについてちょっと言ってみます。詳しい事がまだ書けなくて抽象的ですが、たとえ話のように書きました。最近、ちょっとツイてる自分を振り返ってのこと。
やっぱりこう、ほんとに思っちゃってる事って言わないと始まらねえだろということはよくあることだと思います。
もちろん、言っても空振りに終わったり不快に思われたり、自分で間違ってることに気が付いたりして、「ホントに失敗したなあ」って思うこともたくさんあるんですけどね。そういうことをできるだけ少なくしたくて言う前にいっぱい考えて「お蔵入り」にしてされてしまったことって世の中見渡せばたくさんあるんだろうなと思います。心当たりありますかね、ぼくはもうしょっちゅうそんなかんじです。昔はそういうことがすごく嫌でしたけれど、今は別段なんとも思わなくなりました。良いとか悪いとか簡単に言えないことですし。
ただ、今のぼくが言えることは、一度感じてしまったことは感じたこととして確かに存在していて、それをなかったことにすることは恐らくできないんだということです。「お蔵」のどんなに見えないところに隠したってそれはもう、在るのですから、在るなりのことが起こります。
自分の話で言えば、そうしてお蔵に入れてきたものが溜まりにたまってもう健康を損ねてしまいました。心と身体、両方の意味で。そしてもう、しょうがなく一つ一つ棚卸してそれらと向き合い踏まえた上でこわごわしながらも行動を起こしたら、不思議なもので色々な新しいありがたい縁が生まれました。もちろん、失った縁もあります。それらを総決算して黒字になるのか赤字になるのかよくわかりません。でもこんな状態の自分を好きかと問われれば、「以前よりもずっと好きだ」と言うことができます。
そんな途中経過です。これからもまだまだ変わっていく途中なので、どうすべきかなんてことはわかりません。ただ、行き詰まっている状態をとにかく動かしたいときのブレイクスルーの方法はいたってシンプルで、「感じてることを人目につくところで表現すること」だということが今のぼくの考えです。
得るか得られるかよりも、好きか嫌いか。
今日もおいでなさってくれてありがとうございます。この表現ではなにが動き出すのだろう。