泊まらせていただいたお宅を気温の落ち着く夕方に出立し、20kmほど離れたところにある別の方のお宅へと移った。
家の人からは「行かないで」と言われ、後ろ髪引かれる思いにはなる。言葉もろくに通じなかったのに親しんでいただけてありがたい。
でも、手前味噌な話になるがなんとなく分かる気がする。途上国の生活をある程度眺めさせていただいて思うが、もうルーティンなのだ。暇で覇気が少ない。男性はは仕事を、女性は家事を(日本や欧米以外ではジェンダー別分業は決まってることがほとんど)もちろんどんどんこなすけれど、あとはだらーんとスマホで動画を見てすごしていることがほとんど。自分のような口にするものにいちいち大仰なリアクションをしたり、謎に踊り出す輩はアトラクションになるのかもしれない。自分は好き勝手に生きているのだから、それによって醸し出されるエネルギーというものを分かち合って喜ばれるなら本望。
セネガルでもそうだけどこうして木の臼に刻んだ野菜を入れて潰すのは良くやっている飯の支度の様子
ニンニク、玉ねぎ、トマト、ネギ、ピーマン、唐辛子、胡椒が入っているそうです。
「アフリカの女性は美しいのよ」と言っている姿が清々しかった。
お茶の中には茶葉とミントとたくさんのお砂糖。
昼食は「ドモダ」という、潰したピーナッツのペーストに先ほどの野菜を一緒に煮込んだペースト。
みなさま手でいただきます。
レディたちとご一緒させていただきました。
出発前に
一家のお母様
大変お世話になりました、「バディジャ(家族)」と思って迎えてくれて嬉しかった。
子供たちからも走り寄られる。
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人混み多めの場所を少しだけ動画に収めてみました。
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移ってきた家の方はダカールにいる時、コリーナがガンビアに住む人のWhatsAppグループでぼくの滞在先を募集してくれた際に声をあげてくださった。しっかりとしたゲートに囲まれ、セキュリティのおじさんもいて庭にプールまで付いている、いかにもヨーロッパから移住してきましたという風体のお宅。エアコンまで使わせていただいてゆっくりさせていただいた。
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出立夕方までの間は瞑想的っぽい時間を過ごしていた。以下、思い浮かべていたことを2つ。
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「自分である状態」というのは世界に対して自分の存在感を強く保持することじゃなく、自分とその他全てが分かれてるという前提がなくなって一体になること。融けあって自分がなくなる、ということが、実は一周回って自分になる。
例えば自分の考えが考え通りに行かなくても全てと一体であればそれに対して取り乱す必要が無くなる。一般的には自分の脳とか心、身体、私有財産、それからコミュニティがあれば家族とか社員とか仲間を外界と分けて自分のキャパシティの範囲とするわけだけど、自分とその他全てが融け合ってしまっていればもう全てが自分の仲間、というか自分であり、自分の想定を超えた事象も自分の意図であるというほどに達観できて泰然とした構えを保つ事ができる。
具体的な感覚の使い方としてはぼーっとする、視界のピントをボケさせる、背筋を真っ直ぐにする(前のめりを正す)、身体の接地している部位から息を吐き出す、透明になるイメージ、身体が溶け出すイメージ、今のところ有効。全体的に真っ直ぐで透明になって俯瞰的な視点になる、という方向性。
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「自分はダメなやつだけど必死に頑張って認めさせてやるぞ」という泥臭い根性が自分の中はある。そういうお話を見ると泣きそうになったりもするし、そういう話に一緒に感動してくれる人もいて、「それこそが美しい」という自分のアイデンティティとか誇りみたいにしているようなところもある。
ただこれはやっぱり最初から自分の作り話。何ひとつとして確かなことがない。こういう発想を得るに至った失敗体験談的なネタもあるのだけど、その内容を一つ一つつぶさに確かめると結局は中立的な出来事を自分の捉え方で悲劇的なストーリーに仕立て上げたという印象が今は強い。
自分とは誰か?ダメとは何か?認めさせるのは誰?認められるとは?それほど曖昧な土俵の上で必死に頑張る意味は?
そう思うと悲劇的な方向に感情的になって(没入している)いたのがどんどん退けて冷静になってくる。何も問題ではないし何も悲しくはない。まっさらだ。それほどまでに自由な世界を前にしてから描きたいものを描き舞いたいように舞う。