HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

わたしの中が空っぽであれたらいいなと思う

清瀬ってところは本当にいい場所で

近所にのんびりできる大きな公園がある。

ここで過ごすと心も体も結構いい感じになれる。

 

自分の「まなざすひと」のことをなんて伝えたらいいのか

ずっとわからないままだったので

ノートを手に公園に向かった。

 

書いてみてから、これはあまり直さずに

このままブログで流してみようと思った。

 

せっかく興味を持ってくださった方にはアレだが、

2000文字近くあってあまり文章として精錬されたものでもない。

ちゃんと読むよりも流してみる方が良いかもしれない。

 

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命の前にあらわれてくる

ひとつひとつの全てを

さっぱりと

むかえ入れていく

 

力むでもなく

ダレているでもなく

 

まなざすひと

 

それは

ぼくのままを

生きて撮ること

 

「あかるい写真です」

「あったかい写真です」

「子どもの生き生きした写真です」

 

評価は、見る人がそれぞれ

自由に色付けてくれればいい。

ぼくはそこに定義を入れない。

 

ぼくが撮る

 

それが全てなんだ

 

 

自分が、生きている

そして、撮る

どんなに説明的な言葉を付しても

それらはおまけでしかなく

このこと以上に大切なことはない

 

 

眼前にある命

それに

寄りかかってしまうでなく

それを

突き放してしまうでなく

 

ぼくが生きてるそのままで

世界と関わっていくだけです

 

そんな関わり合いを通して

ぼくもあなたも

本当に大切にしたかったものを

思い出せたら最高ね。

 

 

命を捧げる

 

 

何もしないで生きてもいい

何をしたってえらくなんてない

ただ、誰かの判断がそこにあるだけ。

すべきことなんてない。

 

でも、この命は

いつかなくなってしまう

初めから何もなかったかのように

 

私を満たすためになにをかき集めても

全て手放してこの世を去る。

 

そんな大前提を思う時

ぼくはこの命を何かに「捧げたい」と思う。

この力が必要な人の元へ届いてほしい。

 

この命は

捧げることに使う

分かつことに使う

差し出すことに使う

 

 

その、使い方は

別に「誰かになにかを施されたから」とか

そんな因果で決定づけることではなくて

「何かを得ることができるから」とか

そんな小さな利害損得でもなくて

 

そういうたくさんの理由づけの数々を

はるかに超えたところへ行きたい

 

本当の愛に理由などないように

この命を何かに捧げることに

理由を挟んだりせずに

まっすぐに自分を投じていたい。

それが真の充足にたどり着く自分なりの方法。

 

差し出すべき人に出会いたい

 

 

わたしである

 

今そこに命あることを

示すような写真が好きになった

 

きっとそれはもとより自分が

命こそもっとも大切にされるべきであると

思っていたことが共鳴するようになったのかもしれない。

故に自分もそうしたいと思い

命を残すことを考えている。

 

本音の本音とはいえ

仰々しく語ってしまった気がするけれど

 

その実、撮れる写真は

結構ふつうだと思う。

 

とりあえず数がやたら多い。

多分映えない写真もいっぱい渡してる。

笑顔の写真は多くなる。

よく、「自然なところを写すね」と言われる。

自分がどんなに高尚なことを思っていようが

今の自分の写真で伝えられることは

そのくらいなのだと思う。

 

色々なコンセプトをつけることも考えたけれど

基本的に小手先すぎるのでやめた。

端的に伝わることをさほど重要だと思っていない。

それよりも、

そのままの自分で飛び込んでいくことを大切にしたい。

だから

 

「自分が撮る」

これくらいが本質だと思う。

 

「自分が撮る」

それに値をつけて売っていこうというのだ。

 

「自分が撮る」

それはやろうと思えば誰もができることだ。

 

本来であれば、そこに様々な

パッと伝わる価値をつけるからこそ

商売として成立するのかもしれない。

 

が、自分はそこを目指して舵を切ることはしない

何かわかりやすい装飾が付いているから

素晴らしいのではない

 

「わたしである」から

 

それだけで商売となるほどの価値が

生むチャレンジをしている。

 

わたしである

 

それはなにも努力せずに楽をして

うまくやってやろうという魂胆とは大きく異なる。

 

わたしの前に広がる世界の中から

わたしが本当の本当に望む選択をしていくことで

自分を含めた全ての人に貢献していくことができる

「one for oneself」しか意識しない生き方が

そのまま「one for all」となるはずであるという仮説

 

わたしである

 

この言葉にはそんな思いを込めている。

 

 

この世界まるごとが贈り物である

 

写真をとるということがどういうことなのか

正直まだまだよくわかっていない。

 

ただ、「今、この時」こそが

確かな真実で

確かな実感で

 

生きることの全てであるとすれば

その今に対して全力で開いた自分でいる

「撮影」という行為は

生きることの本質的な何かを

自分に見せてくれるかもしれない。

 

自分が選び残す瞬間たちに

なんの素晴らしさがあって

なんの意味があるのか

 

それは

 

わからない。

 

でもきっと、それを認識するかどうかは

大切なことじゃない。

 

もっとよく見てみたい。

もっと深まってみたい。

もっと出会ってみたい。

 

写真という枠を通して世界をみる時に

湧いてくる瞬間瞬間の

衝動に身を委ねていくことだけが

自分の意識にできる仕事だ。

 

この積み重ねの先にあるかもしれないと思った境地

 

それは

 

本当は世界丸ごとが贈り物だ

 

ということだ

 

とてもこんな言葉は

今の自分の身の丈に合わない。

 

しかし、カメラを手に持ったことがきっかけで

この目があることが、視覚があることが

自分の周りに世界が広がっていることが

少しずつちゃんとわかってきた

 

そしてこの広がりの行き着く先に

世界まるごとが贈り物

の真の実感が待っているのかもしれない

 

この命終える時に

「この世界はいいところだったよ」とつぶやけたら

それは素晴らしいことであると思って良さそうだ。

 

 

わたしの中が空っぽであれたらいいなと思う

 

あのハト一羽の首の動きにはきっと驚くべき秘密が隠されていて

この落ち葉一枚の一生はきっと感動するような景色の連なりがあった。

 

希望の始まりはどこにでもある。

 

今日もまた、人目につかぬところで

命は燃え上がっている。

  

たくさん走り回っても

じーっとしていても

 

一億万人を救っても

道ゆくアリ一匹を救っても

 

その時間は終わります。

 

わたしの中が空っぽでいられたらいいな

丁寧に暮らすとか

愛に生きるとか

そういうんじゃなくて

もっと

一歩一歩を踏みしめていたい。

 

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なんか、別の人の喋った言葉を

報告してるような感じでいい。

この言葉の紡ぎ方を重ねて

まなざすひとのことばを紡いでみようと思う。

 

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