HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

不安からあれやこれやするよりも、スッと「大丈夫」からはじめるんだ。

不安になることが多い。

 

最近はお金のことで不安になった。

月末、家賃をギリギリになって払った。

現在手元と口座を合わせてお金は1000円だけある。

クレジットカードにはまだ未払いのお金がある。

このままお金を払うことができなかったらどうなるのだろう。

怖い取り立て屋みたいな人がくるのか。

警察に捕まったりして前科者になったりするのか。

 

写真のことでもよく不安になる。

自分の写真が、多くの人の目に入るメディアや

大企業の製作するプレスに乗る機会が増えてきた。(ありがたい)

今までにない領域の人を相手に自分の写真を見せる。

そうなると、お送りするときは不安になる。

今までの自分のやり方で通じるんだろうか。

 

生き方で不安になることが一番多いかもしれない。

たくさんの人に信頼されている人を見ると

自分はあんな風になれるだろうか

たくさんの国を旅したり人と出会った人を見ると

自分ももっと見聞を広げた方が良いんじゃないだろうか

歳をとってから、若い人に何も提供することもできない

暗い暗いじーさんになってるんじゃないか。

 

生来、ぼーっとしていることが多くてめんどくさがりだ。

家では家事を手伝ったことがほとんどなくて人任せだった。

いつも自分の食事などは用意してもらって

学校に行く準備はギリギリになって自分でやる

が、よく自分のものを無くして家中探し回って見つからずに遅刻。

そして、それでも忘れ物ばかりしていた。

 

何かと情報に疎い。

クラスでは学校に関することや芸能界、ゲームの

情報はいつもクラスの中で最後の方に知った小学校時代

誰が誰を好き、誰と誰は今仲が悪い

クラスメイトの人間関係はクラスのみんなが

知っていて最後に人から聞いてようやく知ってた高校時代

 

子供の頃の話だと思って侮ることはできない。

その感じはバッチリ今にも繋がっていて

気がついたら同年代で

もう所帯を持って大きな仕事してる人がいて

経験豊富で色々なことを知っている人がいて

なんだか知らないけれど、キラキラ輝いている人がたくさんいる。

(気がするだけかもしれないけれど)

そう思うと「とても先を行っているなあ」と思う時が多々ある。

 

自分は相変わらず、のそのそ生きている。

マイペースでそうできているならともかく

やっぱり「そんなんで大丈夫だろうか」と思う。

 

ついでに書いておくと、家族とあまり仲良くしていない。

父の日母の日誕生日、お祝いなどはしていない。

 

家族との関係の大切さをうたった話は

ほぼ毎日、どこかしらから入ってくる。

「家族を大切にしましょう」

批判の余地のない強すぎるメッセージは自分にはちょっと辛い。

 

実際に知っている人も家族を大切にしている人は

なんだか、素晴らしさがプラスされているような

そんな特別さを持って自分の前に現れてくるような感じがして

やっぱり不安になる。

 

そんなこんなで自分の生き方が

しっかりしているわけでなく

かといって面白いわけでもなく

愛溢れて優しいわけでもない。

そう思えてくるときがよくあって

 

「おれ、このまんまでいいのかな」

 という不安となって自分の中に影を落とす。

 

不安になると。その不安を埋めたくなって

色々な努力に手をつけたくなる。

写真の勉強をしようとしたり

もっと自分の写真をアピールしたり

何かいいことをネット上で発信しようとしたり

とりあえず何か本を読もうとしたり

 

そうやって身につく役立つことは確かにある

 

けれども今確かに実感していることは

その努力では

自分の本当にたどり着きたいところへは到達できない。

 

〜〜〜

 

今日、歩いた。

今住んでいる清瀬は近所に豊かな自然が結構あって

歩くと気持ちがいい。

18:00くらいから家を出て日が沈んでいく。

だんだん暗くなっていって

河原に到着するころにはもう、真っ暗だった。

 

でも、目はだんだん暗くなって行く空に

ついて行ったおかげで、暗闇には慣れていて

街灯がなくてもその風景を心地よく感じることができた。

 

歩いている時もよく冒頭の不安の数々が頭に浮かんでくる。

 

そんな中でふっと、

 

「大丈夫」と浮かび上がってきた。

 

微笑みながら深い息遣いで、ささやくような感じだったように思う。

 

「大丈夫」

 

すると、フッと表情が柔らかくなった。

 

ああ、そうだ、これなんだな

 

と、その時に気がついた。

 

「大丈夫」が浮かぶと、いつも考えている不安から

少し距離を置いて眺めるかのような感覚になることができて

楽になった。

 

〜〜〜 

 

本当はぼーっとしていばっかりで

それゆえによく不安がってしまう

自分が本当にたどり着きたい境地。

それは要するに「安心」なんだと思う。

 

安心するためには

その安心の根拠となるものをかき集めたくなる。

わかりやすい例はお金。

他には人脈、仕事、力、、、

 

未だにちゃんと得たことはないと思うけれど

あったら安心しそうな気はする。

 

でも、そういったものを手にしたとしても

今度はそれを失うことに対する不安が生まれる。

安心するために得たものが新たな不安の材料になる。

と、思うのだ。

 

そんな構造を思い浮かべて出した結論は

 

不安のタネがある限り、不安は永続する。

 

これでは自分の行きたい「安心」の境地に

たどり着くことはできない。

 

ではどうするのか。

 

それが、

 

大丈夫。

 

だった。

 

どうして大丈夫なのか。

 

理由は

 

ない。

 

理由を求める心境そのものもまた

不安から生まれていて

たとえ見つけ出しても

かりそめの安心だけが残る。

 

理由なんて、なくていい。

 

その気づきの真偽

よりも大切なことは

 

そう思えた時、

歩いている自分の顔がふっと上がって

表情が柔らかくなる感覚が出て

背筋がまっすぐになって

胸をはれたことだった。

 

そうか、人はこの姿形をみて

人によってはこの心境まで感じ取って

自分と接しているんだなあ。

 

自分の周りの人や現象は

自分の写し鏡だなんて話をよく聞く。

 

だったら、このまんま生きていれば、

本当に、大丈夫になっていくんじゃないだろうか。

 

何をするにしても、ハラの底で感じていること

「心根」みたいなものが必ず表出するのだと思う。

 

どんなに力を得ても、

それを得る中で表出している「心根」が伝わる

「不安」なら「不安」が伝わるだけ

「希望」なら「希望」が伝わるし

「愛」なら「愛」が伝わる

 

欲しい未来、欲しいもの

それがあるなら、それを手に入れられる

自分の「心根」に。

 

そうなるために必要なことは、きっとない。

もう、「なってしまう」しかないという領域。

 

自分は本当の安心に触れてみたいから

全てを

 

「大丈夫」

 

とできるようにしてみます。

 

 

この命にはもともと「しなければならないこと」なんてない。

 

たくさんの命を祝福して死のうが

たくさんの命を殺めて死のうが

死んでしまえばおんなじ命。

だから、大丈夫。

 

ちょっと乱暴かもしれないけれど、

そんな捉え方が自分に与えてくれる感覚好きで

毎日を元気に生きて、ご機嫌に人と関わって行くためにとても便利です。

 

大丈夫から始まる人生の時間を味わってみようと思います。

 

大丈夫。

 

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