HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

見られ方を変えたいのであれば

ぼく、人に見られている時ってのは、人の目の前で喋ってる時だけだと気がついたら思っちゃってるんですよねえ。でも、いちばんみられてるところって、やっぱり目の前じゃない時にやってることなんですよねえ。

例えば面接対策とかでもそうだけれど、挨拶の仕方とか、席への座り方とか、退場の仕方とか、面接官の前でしゃべる以外のことがやたらと指導されるのはやっぱりそういう意味では理にかなってるのかもしれません。

でも、そうやってみんなで意識すると、それもやっぱり試験管にとっては「目の前」になるんですよね。だから面接官はそのさらに「目の前じゃないこと」がやっぱり気になるんです。そうしたらさらにそれをなんとかするための対策が立てられるのかもしれない。

で、だんだんとそんないたちごっこみたいなのが続いていったとしようか。すると最終的な「目の前じゃないこと」ってのは、つまるところ「本音」なんだって思っています。

そして、「本音」のベースとなる材料は文字通り「目の前じゃない」時にすることで決まるんだろうなと思っています。もっと言えば、「すること」もまたやっぱり作れちゃうので、もう一歩すすんで、「こころのあり方」なんだろうなと思っています。

穏やかでいるのか、焦っているのか、にこやかでいるのか、怒っているのか。そんな一つ一つのこころのあり方が人前に出るときの意識におおきく混じって、見る人に「印象」というやつを生み出しているのだと思うのです。

他人ってのはじぶんが思っている以上に頭がいいもんですから、「目の前にないこと」ををたくさん想像することができます。きのせいですかねえ?すくなくともぼくは本音も一人でいるときのこころのあり方も、けっこう感じ取られているんだと思うんですよ。

見られ方を変えたいのなら、「見られてるはずがない」って思うところを変えるのが、きっといちばん遠回りのようで近道なんでしょうね。

おいでなさっていただきありがとうございます。

上手に化粧した顔を見るとよりすっぴんってみたくなるわけで。

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