HIRO EATS THE EARTH

地球まるごといただきます

障がいとまなざすひと

発話の困難な障がいのある方々への
適切な支援によるコミュニケーションを通して
本人の意思による活動を実現されている
団体さんがあってですね

アート活動とか温泉旅行とか普段の会議風景とか
色々なシーンの写真撮らせていただいてるんです。
写真の仕事始めたばかりの頃からずっとです。

コミュニケーションをとることが困難だった
方々にも意思はあってその疎通ができるようになることは
この上ないほど意義深いことだと思うし
どんどん広まって言ったらいいなあと思うし

いつか自分の撮ったものがその広がりの
一助になれたら良いねと思っています。

で、本題はそことは別軸の
自分の中での話になるんですが

写真を撮る人間として関わるにあたり
一つのトライをしてみたいテーマを
個人的にひっそりと設定しています。

それは
「言葉がなくたって通じ合えるんじゃないの?」
もうちょっと正確に言うと
「通じ合うってなんだろう」
というちょっとカオスなテーマです。

だって、
そもそも言葉が話せる人。
しかも同じ日本語を話している人同士だって

「こいつ何言ってんのかさっぱりわかんねえな」

とか

「言ってることはわかるけれどなんか頭入ってこねえな」

とか

逆に一言も交わしてなんかいないのに

「あ、なんかこのひと好きだ」

とか

「この人とはどこかであったことのある懐かしい感じがする」

とか

そんなことってあると思うんですよ。

言葉が通じ合うことは言うまでもなく大切なことだけれど
本当に大切な「通じ合う」と言う現象は
言葉があるかどうかだけが大事なのではないのではないかと。

「言葉」ってその字のごとく
やっぱり「葉っぱ」なんだと思います。
その葉っぱの元をたどればには必ず
もの言わぬ語らぬ幹がある。

その幹に「通じ合う」の秘密があるんじゃないか。
だから幹を見てみようじゃないかと
写真って「見る」行為の上に成り立つ表現だと思っていて
「見る」って視力があれば誰にでもできる行為なんですね。

なので、撮影現場ではその「見る」行為だけでなんとなく
彼らと通じ合えたりしないだろうかとトライするんです。

で、ここまで大げさっぽい説明したけれど
やることはひたすら地味です。

じーっと見て
「あ、なんか今喜んだ気がする」
「今はちょっと眠いだけかな」
「すごく声を出してるけれど目が冷静だな」

そんなふわりとした受け取り方の中で
「あ、今いいのかもしれない」
と思った時に撮ってみる感じです。

こうして書いてて
「何言ってんだろ自分。」と
内心ツッコミを入れてますが、
大事なことな気がするので
このまんま話を重ねちゃいます。

そういえば、なんですが
こういう見方ってもう誰にでもやってます。

言葉だったり行動だったり目的だったり
相手の意思が明確に理解できてしまうと
逆にその意思に引っ張られすぎて
本質を見失うことが多いので使う神経は
随分違いますが

それでもまあやることはシンプルで地味。

「あ、今いいのかもしれない」

と思った時に撮ってみる。それだけ。

で、それで良かったのかどうかは
全然わからない。笑
でも写真を自分で見返して
「おお、なんかすごい!」
みたいになるのは
暗闇の中の光みたいでとても救いです。

で、まあ自分が良くても
相手に写真を渡して喜ばれたり
何も言われなかったりするわけですが。笑

ひとつひとつの反応が自分にとても
とても良い何かをもたらしてくれてるんだと思います。

何が起こるにせよ、そんな行為を重ねていって何が起こるか
やってみる価値はありそうだなと思っています。

「まなざす」って謎の言葉使ってますが
そんな感じだと思います。そういえば。

ちなみに「見抜く」って好きじゃないです。
なんかその、分かった気になってような感じに
一種の暴力性を感じちゃって怖いなあと思うんですよね。

「分からない」というのが全ての根源で
そしてふわっと優しい出発点。

でも、ずっと「何にもわからない」っていうのとは違う。

「なんか、こんな風に受け取れるね」

という感じを重ねて
それは良いつながりを生む材料に
なったらいいなと思っているところです。

写真展とかやるならそんな感じがいい。
でもまだまだ自分がこの言葉たちに
追いついてなさすぎて実現するのは
ずーっと先になりそうです。笑

表明のない意思にも柔らかな
暖かい光が当たりますように。

こめお

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あ、南極は行きます^^