自ら命を投げ出してしまおうなんてつもりはもちろんないけれど、なにかの巡り合わせで死ぬことに対して「そんなに悪いことではない、むしろ次の場所へのお引っ越し」くらいに思うことにしている。物理的に痛いのは本当にごめんですけれども。
すると、頭や小手先で細かい心配を抱えなくなる。自分以外の存在に対して繕った自分ではなくなっていくし、呼吸が深くなるような感じがする。今動かしている手足やそこに密着している地面や物ものの感触をより感じられる。目の前の景色に集中できる感じもするし、過去の失敗を思い出してクヨクヨすることも少なくなるし、本当の本当に大切な目に見えない大きな何かに全神経の焦点が近づく感じがする。自分はこんな感じの状態はより「生命体として自然」な状態なんじゃないかと直感している。
「死なないように生きる」ってなんか、変だなぁと思う。時々道路には恐らく交通事故に遭った犬や猫や亀や鳥の死体が転がっている。解体されていく豚や、生まれてから数え切れないほど口にしてきた動物の肉や、耳にタグのつけられた牛や、路上で餌が欲しくてすり寄ってくる猫。
人間ほど死を恐れる生命体はいないのだろうなぁと思う。恐れるからいろいろなあの手この手を捻り出す。
もちろんそこから生まれた成果が今の日常生活というやつで、自分ももれなくその恩恵に預かっているから、こうして今日も旅を楽しんで呑気にこんなブログを書いているのだと思う。
生きることは大切だけれど、死ぬことも間違いじゃない。死ぬことが悲しいなら、死んでしまった人も悲しくなってしまうではないか。死ぬことが間違いなら、死んでしまった人にペケをつけることになるんじゃないか?自分が死んでしまった時には、引っ越し祝いみたいに思えたら素敵じゃないかなぁと思う。
「死なないようには生きない。ただ、生きる。」その構えの美しさに心惹かれる。居心地の良さを感じる。
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60kmくらいを走った。予定よりもスローに進んでいる。
修道院に置いてあるバイブルやフレスコ画、何気ないものに興味そそられる。なんかこの雰囲気伝えたいなぁー
お世話になったお部屋。
ブルガリアのポットもいい味出しているよね。
昨晩のすごいバニツァを作ってくれた修道院の清掃担当の人の写真を撮らせていただいた。あまり話さなかったけれど、去り際に小さなお手紙をわたすと笑顔で固く握手してくれた。
人里から少し離れた、とても印象的な場所だったなぁ。巡り会えてよかったです。ありがとうございました😊
山を降る。
すると広い景色になる。
振り返ったところにお世話になった修道院が。合掌。
その後も気持ちのいい景色を走った。
この場所で自転車に乗っている動画を撮っている時に、横転した。
前カゴが微妙に壊れたので直す。くだらないことで遅延する。
また走り出す。
どの村にもセンターにはこういうお役所のような建物がある。
軽く雨が降ってくる。天気雨だ。
ちょっと大きめの街にさしかかる。
またご立派な教会を見つけたので近づいてパチパチ撮る
街の入り口のオブジェとかも良い感じだと思う。
時折日が差してくると美しい色合いになる
これまた街を通り過ぎる。
街を通り過ぎたあたりで後ろのキャリアが少し壊れていることに気がついた。計8本の棒で支えているのだけど、そのうちの3本が折れている。左右に触れるとグラグラする。ギリシャで少しずつ壊れていった前のキャリアを思い出して恐怖する。横揺れしやすい登り坂は基本手押しで、それ以外の道もゆっくり進む。
日が暮れていく。今日もきれいな色を見せてくれる。
村を通り過ぎる度にたくさんの犬に吠えられ、鎖の繋がっていない犬には競走を申し込まれるのが定番。写真じゃ伝わらないけれど声がめちゃくちゃ大きくて慣れないとビビる。
本格的に暗くなってきた。自転車のキャリアを直せるお店のある街まで移動したいけれど、街灯もない暗闇の道がほとんど。そんなところでパンクでもしたら悲劇なのでどこかで夜を明かすことに。
ちょうど差し掛かっていた村の家の中から灯りのついているお宅の人に相談をすると、家の前のきれいな芝地で大丈夫だと許可をいただいたのでそこにテントを貼ることに。よなよないきなり現れてごめんなさい。
「お腹は空いているか?」とジェスチャー尋ねてくれた。家の中からサンドイッチを持ってきてくれた。ありがたいです。めちゃくちゃ☺️
満月だった。街灯が近いので明るい。それでも結構星がたくさん見えた。気温は明け方でマイナス1度くらいまで落ち込んだけれど、あったか寝袋で快眠できた。